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人と人と時間

 過去にお会いしたAさんのことをぼんやり考えているとき、その人と関わりのある人たちも思い出した。
Aさんは男性だが、ある出来事を乗り越え、それを一緒にしたことからご縁を感じている。今は疎遠になったが、その時は確かにご縁を感じていた。
Aさんの関わりのある人たちとは、もちろんAさんの家族や友人たちだ。
最初は、自暴自棄で支離滅裂な他責思考のAさんのことをあまりよく思っていなかったが、Aさんは成長とともに変化し勇気を持って前進するようになった。そしてその中で一緒に困難を克服することが出来たことで、俺のAさんへの見立ても変わっていった。
短い期間ではあったが、長い長い時間を共にしたように感じられた。

会えば、懐かしさと共に困難の克服の喜びを共有出来るだろう。
しかし、関わりのある人たちを続けて思い出すと言葉が限られてゆき、会って話したいと思って浮かんできた言葉たちが一つまた一つと消えていった。
その時、ふと話したいと思う言葉が浮かぶかどうかと、その言葉を話せるかどうかは、とても重要だと気が付いた。

よく実際に会ったら言葉が浮かんで来ないとか、事前に考えていなかったから、余計なことを言ってしまったなんてことがある。
Aさんの周りの人に俺の言葉が伝わることを考えると、再会も良いと思っていたのに、会っても言葉が出ないかもしれないと思い、少し寂しさを感じた。

俺が誰かに何かを言うことがなかったとしても、Aさんが言うかもしれない。秘密にすることがあるわけではないが、第三者の言葉は時に残酷な場合もある。第三者の主観による正義の言葉が、俺やAさんにとって正しいとは限らない。違う視点で同じ問題を経験した場合は、真逆になることもある。

人は誰でも取り巻く人によって自分の世界を作っているものだ。
俺にも古い知人の誰かには、そう思わせるような周囲の人が居るのかもしれない。割とおざなりにせず、関係を整理して付き合う人は限定している方なのだけど。

しかし、Aさんも関り合う人を考えているかもしれないし、あまり深く考える必要もないという可能性もある。
また、ご縁とは不思議なものだからいつか再会の日もあるのかもしれない。あまり意図的に合う必要はないと今は思うようにしよう。

時間は、良くも悪くも進み続ける。