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原点。すべてはここから始まった。

有限会社〜経営事務所。

そこは約34年前から5年間勤めていた場所。

2019年には、社員全員辞めて社長も追い出されて一人自宅開業しているそうだ。

社長はよくも悪くも実の父親のような人で、設立当初からの事務員さんは近所のおばちゃんのような人だった。そんな2人が2人3脚で歩んできた事務所だ。仕事の合間のひとときの休み時間は暖かな家庭にいるような感覚を持っていた。

仕事中は今では「パワハラ」と認定されてしまうような環境で、入社したての2年間は嫌で嫌でしょうがなかった。いや最後まで嫌だったのかもしれない。今思えば愛のあるパワハラだったのかもしれない。

職場環境も理由のひとつかもしれないが、事務所の従業員は数年で入れ替わるという年功序列の企業文化とは、かけ離れた唯一無比の経営事務所だ。それが急にだ、社長の怪我による不在期間に起こった留守を預かった人と従業員さんたちとの意見の相違で空中分解してしまった。社長もそのとき70を超えていたので、後継者不在であれば当然の成り行きだったのかもしれない。

しかしながら、なくなってしまった場所。無念。

なぜその事務所を勤務場所として選択したのか。

理由は簡単。今の時代「手に職」がなければ路頭に迷うと考えてのこと。

父親は祖父の代からのいわゆる職人だった。家業として「機拵え(はたごしらえ)」を営んでいた。なんと説明すればいいのか。小学生の頃からこの説明がうまくできずに困らされた。今でも説明に困る。たいていの人は「織物業」といえば「機織り(はたおり)」でガシャガシャでかい騒音の中で、着物をつくる布地を生産、あるいは、つるの恩返しの1場面を想起する。

織物は、張られた経糸(縦糸)に緯糸(横糸)を通すことで布地に仕上げていくもの。着物に見られる美しい模様も縦の糸の間に横の糸を通すことで完成していく。織機のない時代から延々と紡ぎつづけられている工法だ。

縦糸は、模様となるよう糸を一定の間隔を開けたり閉じたりできるように30cm程度の細い針金の中心にある大きめな針の穴に1本、1本ずつ通される。
横糸は、縦糸の通った針金が模様の型紙に空いている針金が通る穴のありなしで作られる縦糸同士の空間を目指して通される。横糸が通れるように型紙の穴によってコントロールされ上がり下がりする縦糸の通った針金の下には太さ2〜3mm程度の少し重みのある針金が付いている。

型紙には模様になるようこの縦糸の通った針金が通る穴がある。それから横糸のために横糸を飛ばせるよう木製でできた先が尖った両側が鏃のようになっているものを使う。

模様の型紙、縦糸の針金、横糸の木製でできたもの(なんと呼ぶのかわすれてしまった)、そして横糸が機織り機にセットされることで、織物が始められる。

「機織り」は、機織り機を使って、横糸を通し織物を生産する工程だ。ひとつひとつの重さはないが、針金とその重しとしての少し太いハガネが1万本、2万本となると型紙の穴によって上下させされゆれてこすれるのでガシャガシャという騒音となる。

「機拵え」は、針金に縦糸を通して、機織り機に載せて横糸を飛ばせるように模様の型紙に連結させるのが工程だ。「機拵え」の現場は、心の中で数を数えるときに漏れるちいさな声と直径1mmもない細い細い針金の穴に裁縫針の先を細い糸が引っ掛けられるよう丸を描くように曲げて拵えた針に糸を引っ掛け通るときに発する小さな摩擦音くらいで静かだ。

自営業だったので、税務申告のために記帳代行をする会計事務所から定期的に人が来ていた。仕事場の端に座ってお茶を飲みながら談話しているところを思い出す。小さかった頃はその人が帰ったあと残ったお菓子を食べるのが楽しみで仕方なかった。

大学を卒業する2〜3年前までは、バブルのまっただ中で引く手あまただった就職戦線だったが、なぜかバブルが弾けることを感じていて流れるまま企業に入るのは嫌だった。人間科学部人間科学科教育学専修のわたしには、となりのひとに勝るものも記憶力もなかったので、そのままでは企業の中で溺れるだけだった。それが「手に職」をつける修行がしたい、につながった。

父親の手に職ではなく、そこに来ていた人の手に職に魅力を感じた。でも経理事務所には行きたくなかった。親戚もほとんど自営業だったことから経理事務所には、カネだけ取ってそれだけ、という愚痴しか聴いていなかったからだ。愚痴が出るのは、記帳だけ、決算書を作るだけで、税金の説明はあっても、月々の仕訳のモニタリングから経営的なアドバイスなどの応援がないからだ。記帳代行を頼んでいる経理事務所も親戚の数だけあったが、みなが口しか言わないのだから、費用対効果がなかった、ということだろう。

そんなことから、経理事務所ではなく、「経営事務所」を選んだわけだ。単なる仕訳を積み重ねるだけの経理(あくまでも当時の感想)という職ではなく、経営者のお役に立てる職だと思ったわけだ。

働き始めてわかったのは、経理事務所も経営事務所も職は同じということ。会計士、あるいは税理士がその職務に付随するため記帳代行をしている。わたしが勤めた経営事務所(有限会社)も税理士業務は社長個人名の税理士事務所(屋号、〜経理)となっていた。1つの住所、1つの事務所の中で有限会社と個人事務所が両立していたのだ。いまとなっては忘れてしまったのだが、わたしは一体どちらに所属していたのか、あるいは、両方に所属していたのか。給与明細は1つ、振り込みも1つだけだったので、有限会社だったのか。でも、社会保険には加入してなくて、税理士の加入する健康保険組合と国民年金だったので、税理士事務所に勤めていたのか、わけがわからない。まあ、過ぎたことを蒸し返しても意味はない。

経営事務所で経営を学べると思っていたわけだが、まずは簿記から、仕訳から。

簿記の「ぼ」の字も知らなかったわたしは、愕然とした。勤め始めからお客様を担当させられたのだ。最初は3件くらいだったか。まったくの初心者なので、規模も小さく1ヶ月間の仕訳数も少なかったのはよかった。家に帰っては簿記の本を読み、事務所に行っては過去の仕訳帳を読み、先輩の作成した仕訳票を会計システムに入力という日々を過ごした。売掛金、買掛金を理解するのに2年もかけてしまった。

この経営事務所には他の経理事務所と違う点がもうひとつある。

現金出納帳、売掛、買掛、仕入帳、固定資産などの科目別や帳簿作成後など業務を複雑に分けてなかなか簿記一巡の手続きを網羅的に経験することができないように仕組まれていないところだ。チームでなにかしらの業務を分担する形ではなく、1人でお客様を担当する。

お客様を担当する、ということは、領収書や通帳、請求書などの原始証憑から仕訳を起こし、仕訳から総勘定元帳を作成し、決算仕訳をして、決算書(財務諸表)を作成、課税所得を社長(税理士)が確認したあと、税務申告書の下書きをして、最終確認を社長がしたあと、一緒にお客様に説明するにとどまらず、お客様の経営的な相談や日々の記帳での気付きとその対応策、社会保険の手続きや会社設立、解散まで、ありとあらゆることを担当するということだ。仕訳票ときたら、毎月締め後になるのが嫌になるほど大変だった。くっついている3枚綴りの複式伝票を1枚ずつの科目ごとに分け、科目毎に日付順にまとめていくのだが、狭くはない机の面積をいっぱいいっぱいに使ってもまだ置くところに悩むくらいだ。これにも毎回1時間くらいかかった。

わたしも3年目くらいからこの事務所の戦力になった。個人の確定申告の時期はすさまじかった。寝る暇もない。徹夜続き。この期間だけすべての残業時間ではないが、労働基準局に指摘されるのが嫌だったのか、基準内の残業代が出るのが、うれしかった。これ以外は残業代は出ない。担当業務が8時間内で終わらないのは、自分の能力が低いからで、事務所のせいではない、ということだったのかもしれない。社内に8時間いるだけでお給料をいただけるわけではない、そこにいる時間で業務に何時間費やしても良いという給与計算ではなく、業務を完了してなんぼ、なのだ。

「年功序列型」では、同じ会社で勤務する期間が長くなればなるほど業務遂行能力は向上し続け、年を取るほど会社に貢献するようになる、という希望だと思うが、現実は理想というか妄想でしかない。妄想が希望のとおりになるには同じ会社に所属する勤務期間の年数ではなく、ひとりひとりが自律的に学ぼうとする意識をもって実行した結果なのだ。時間が給与になるのではないのだ。業務単位の結果が給与になるのだ。

確定申告のほとんどの個人事業主さんは、領収書と売上(売掛)帳、仕入(買掛)帳、通帳、現金出納帳しかない。領収書ときたら、1年分がゴミ出し用のゴミ袋に入れてあるだけというところもある。お客様のところへ行って資料を受取り、事務所に戻ってからまずすることは、ゴミ袋から1枚1枚領収書やレシートを取り出し1月1日から12月31日まで日付順に並べることだ。少なければいいのだが、多いところは4時間以上かかった。それからシステムに入力する費用をいただけないお客様の場合、仕訳から決算書まで手書き、手計算なのだ。少なくとも15件くらいはあったので、申告期間内は地獄だった。

手計算だとどうしてもバランスがとれないことが起こり、1円単位までどこが間違っていたのかを探すのに夕方から夜明けまでかかることも度々だった。朝になり同僚が来て一緒に探してもらったら、1時間程度しかかからないこともあった。社長が会社のシステムを使わせてくれないお客様もあった。当時はパーソナルコンピュータ、しかもノートパソコンはより普及していなかったので、自腹で5年ローンを組んだ。ノートPC、印刷機、会計ソフトを買って、仕事をした。当時の値段で70万はしたと思う。

この事務所、最初に鉛筆、ボールペン、赤青鉛筆、消しゴムの支給はあったが、使い終わったあとの支給はないので、事務用品も計算機も全部自腹。経営や税務については、本棚に並んでいる書籍を読むだけ、場を設けて教えていただけることもない。

あるのは、書籍とお客様ごとに作られている資料とじと仕訳票だけ。先輩も後輩に教えるほど時間の余裕がない。自分から勉強しようとしなければ、この事務所で働き続けることはできないのだ。

書籍を読んだり、過去の仕訳や決算資料、税務申告資料を読みながら、現在の資料を作成していくことで、必要なことを学び身につけることができた。誰かに教えてもらおう、とか、誰かが教えてくれるのを待とう、とか、会社が機器を用意してくれるのを待つだけだったら、なにも身につけることはできなかった。

PCの操作や表計算ソフト、会計ソフトの使い方もそんな学び方をしていたから自学で使えるようになった。会計ソフトのデータを表計算ソフトで使えるようにするとか、その逆とか、データベースソフトに入れて会計ソフトと同じことをさせたり、ソフトのプログラム言語を使って1連の作業を自動化してラクをすることもできるようになった。

2019年当時、わたしは中国にいた。2002年から日系企業で財務総監として働いていた。その後お声をかけていただき四大会計事務所で日系企業のお客様の支援をした後、再び日系企業の財務総監の業務に励んでいた。体力的かもしれなかったが、ふと、日本に帰ってこの事務所に復職したいと考える日もあった。

なにも助けはないが、自分で学べる環境があった。社長が意図していたか、意図していないが自然とそうなっていたのか、わからない。事務所で修行を5年くらいするとお客様の経理部に転職していく場所。お客様がご子息を家業継承のため経営管理を修行させるため1〜2年預かる場所。自分で職務に必要なものは高くても自腹、社会保険に加入してくれなくても、それが日常で普通。という他の企業の職場環境を知らないわたしにとって、この場所は原点であり、わたしの帰りたい場所だ。

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