決別は、忘れることじゃなかった
もう真冬なので、秋の総括をしてみる。今年の秋は、決別ができたんじゃないかと思っている。
私は、15年以上前に起きた事件を引きずり続けてきた。事件に遭ったことを忘れたくて忘れたくて、それにまつわるあれこれを遠ざけることばかり意識して暮らした期間が長かった。事件を報じた夕刊の短い記事にはもちろん一度も目を通さなかった。幸いなことに、検察庁での事情聴取は少ない回数だったし、公判のさいに被害者として出廷を求められることもなかった。
躍起になって忘れようとしてきたけれど、結局、そこは敗北した気がする。忘れられないものは忘れられないと思い知ったからだ。事件の詳細についての記憶は薄れていく。実際、数年前から私は事件が起こった日にちを思い出せなくなっていた。なのに、肝心の忘れたいことたちは記憶から消えてくれない。
それが今年の秋になって、いわゆる心の痛みみたいなものがずいぶん和らいでいるのを感じた。忘れたい記憶は消えないけれど、生きる楽しさは年を重ねるごとに鮮やかになっていく感覚があった。心のなかでなにかがたしかに芽吹いているような。今秋は、そんな芽たちが伸びはじめている気がしたのだ。
先月、新聞社の記事閲覧サービスではじめて事件の記事をまともに読んだ。ああ、あの日は○月×日だったのか。PDF化した紙面を冷静に見つめられる自分に気づいて、なんだか安心した。うん、けっこう生き返ってる、私。
忘れたいとずっと願い続けてきたことは忘れられなかったし、いまでもふっと思い出す。
でも、15年以上経ってようやく紙面を直視できたことで、私はあの出来事と決別できたのだと思う。ときどき思い出しはするけれど、それが原因で心をはげしく乱されることはもうない。嫌な記憶を頭の片隅に残したまま、同時に小さな幸せたちも抱いて生きていくんだろう。
「無理して忘れなくてもいつか心は生き返るよ」と、昔の自分に言いたい。忘れることだけが、過去と決別する手立てだとは限らない。なんとか生きてきた自分を褒めてもあげたい。もちろん、たくさんの人が助けてくれたことに、昔もいまも感謝している。
そして、忘れたくてたまらないことを抱えて苦しむ人をそっと支えてあげられるような人間に、いつかなれたらいいなあ。そういうことをぼんやり考えながら、ブックシェルフの片隅に新聞記事のコピーをしまいこんだ。
