木魚をたたく横顔と、いつか書きたい私と。
少し前、義父の四十九日が終わった。6歳の双子の娘たちを連れて法要に参列し、会食を終え、帰りの車の中で眠ってしまった彼女たちを抱えて家にたどり着いた。
「じいじ、お空の高いところにいっちゃったの? もうそこらへんにはいないの?」と、空中を指差す娘たちは寂しそうだ。ずっとそこらへんにいてくれたらいいのにねえ、と以前から言っていた。彼女たちにとって、親しい人との別離ははじめての経験だ。
法要が行われたのは浄土宗のお寺だったから、お経のときに参列者全員で木魚を鳴らした。娘たちも目の前に置かれた木魚をぽくぽくぽくと叩いては「これでいいの?」と小声で私に尋ねてきた。
その神妙でひたむきな姿が私の目に焼きついている。喪服におさげ髪の彼女たちは、住職さまの話を聞いて一生懸命にぽくぽくやっていた。じいじが「安楽国」に行けるように。向こうで楽しく、病を忘れて暮らせるように。
娘たちの横顔を見て、この瞬間をなんとか表現したいと思ったのだけれど、いまいち形にならない。住職さまの立ち居振る舞いを食い入るように見つめる彼女たちの様子は、とても尊く感じられた。私たちが形式的に読経するよりもずっと真剣に「南無阿弥陀仏」と繰り返していたあの声音。
二人の様子にはピュアな思いが映っていたのだろうと思う。でも、私が心動かされたのはそれだけが理由ではなさそうだ。娘たちとじいじとの結びつきとか、義父が娘たちを見つめる優しいまなざしとか、私のなかのそういう記憶とも結びついているのだと思う。
胸に去来する思いは、いつもしっかりした形をしているとは限らない。あとから形をなすことだってある。今はまだ色も形もはっきりしなくてもどかしいけれど、いつか言葉で語れる日が来るんじゃないか。
心には毎日、形のないざわめきがたくさん生まれる。それらをなんとか文字にしてやろうという根性が、私の書く原動力なんだろうと思っている。
