誇大妄想家か、救世主か?:小宮雄貴『TRUE KYOHEI SAKAGUCHI SHOW 坂口恭平生活』作品評
さびしさと向き合い続ける男の147分

監督・撮影・編集:小宮雄貴 出演:坂口恭平 2026年 日本 147分
TRUEであり、SHOWでもある生活
タイトルに「TRUE」と「SHOW」が同居している。真実であり、見世物でもある。この矛盾した二語が並ぶこと自体が、坂口恭平という人物の本質を突いている。彼の生活は確かに真実だ。しかし同時に、それは常に誰かに見せられることを意識した生活でもある。その境界線がどこにあるのか、147分を観終えた後も、答えは出ない。
監督の小宮雄貴は長編デビュー作だ。2023年に坂口恭平の個展を訪れ、一観客としてライブを撮影したことから密着が始まった。プロの映画監督ではなく、テレビドキュメンタリーを本業とする映像制作者が、衝動的に始めた記録だ。その素人性と衝動性が、この映画の強さになっている。
撮影中断という事件
密着が始まってまもない2023年夏、坂口は深い鬱に落ち、連絡が取れなくなる。小宮は待った。祈るように待った。半年後の2024年春、鬱が明けた坂口のアトリエを再び訪ねると、彼は幼年期以前から抱えてきた根源的な「さびしさ」と向き合っていたと語り始めた。
この撮影中断が映画の構造を作っている。監督が被写体を失い、宙吊りになる時間。その空白が、再会した時の坂口の言葉に重みを与える。ドキュメンタリーは計画通りには進まない。その計画外の時間こそが、この映画の核だ。
小宮自身が言っている。「なぜ坂口恭平を撮っているのか、坂口恭平を撮るのは自分でいいのか」という自問自答が尽きなかったと。その自問が映像の中に残っている。監督の戸惑いと揺れが写り込んでいる映画だ。これは坂口恭平のプロモーション映画ではない。
坂口恭平という人間の全体像
作家、画家、音楽家、建築家、新政府初代内閣総理大臣、いのっちの電話相談員、そして躁鬱人。この肩書きの羅列が坂口恭平を説明しようとして、しかし説明しきれていない状態をそのまま表している。
坂口は2012年から自分の電話番号を公開し、希死念慮を持つ人々からの相談を受け続けている。「いのっちの電話」だ。しかし映画が描くのは聖人ではない。小宮が明確に言っている通り、坂口も気分の波があり、言動に矛盾が伴い、お互いに助け合わないと生き延びられない一人の人間として写っている。
映画の中で坂口はいのっちの電話を辞めた理由を語る。11歳頃のトラウマも明かす。熊本での生活の中で、タバコを吸いながら話す。その姿は英雄ではなく、ただの一個の人間だ。しかしその人間が、死にたい人々に向けて電話を受け続けてきたという事実は変わらない。
根源的なさびしさという主題
映画の核心は「さびしさ」だ。坂口が鬱の中で向き合い続けた内的世界から生まれてくる言葉が、絵が、音楽が、映画に刻まれていく。そのさびしさは坂口個人のものではなく、現代社会を生きる人間全般が抱えているものだと映画は示唆する。
いのっちの電話に電話してくる人々のさびしさと、坂口自身のさびしさが重なっている。死にたいという感情を受け取り続ける人間が、自分自身も死にたいという感情と戦っている。その逆説が坂口恭平という人物の不思議な強さを作っている。
YouTubeから劇場へという逆転
本作の素材はほぼ編集なしでYouTubeに公開され続けてきた。それを小宮が劇場版として再構成した。YouTubeの垂れ流しと、147分の映画作品は全く別物だ。YouTubeで公開された素材が各地の自主上映会で反響を呼び、劇場公開へと至った。この経路そのものが現代のドキュメンタリーの新しい形だ。
素材を公開しながら映画を作る。観客と一緒にラッシュを経験しながら、編集を進める。小宮はそう語っている。坂口恭平のDIY的な生き方と、映画の制作過程が呼応している。
生きているという奇跡
147分を観終えた時、残るのは坂口恭平という人物への単純な驚きだ。この人間はなぜこんなに生き急いでいるのか。なぜこんなに多くのことを同時にやり続けているのか。
その答えは、映画の中で坂口自身が語る幼少期以前のさびしさにある。さびしさを抱えて生まれてきた人間が、さびしさを抱えて電話してくる他者のために動き続ける。それが坂口恭平の生活の正体だ。
誇大妄想家か、救世主か。どちらでもあり、どちらでもない。今ここで生きているという忘れがちな奇跡を思い出させる、稀有なドキュメンタリーだ。
