未来さんとピカチュウ 第二十話 ピカチュウさんのこと
第二十話 ピカチュウさんのこと
吉田さんが仕事から帰ってくると、娘のあこは、いつもより少しだけ足音を速くして玄関まで出てきた。十歳になってから、学校のことを全部話してくれなくなった娘である。以前なら「今日どうだった?」と聞けば、給食のことも、席替えのことも、友達と何を話したかも教えてくれた。最近は「ふつう」「まあまあ」「別に」が増えた。吉田さんは、それも成長なのだろうと思いながら、少しだけ寂しい気持ちでネクタイをゆるめることがあった。
しかしこの頃、あこには父親に自分から聞きたいことがあった。
「お父さん、今日、ピカチュウさんいた?」
吉田さんは靴を脱ぎながら、少し笑った。第一声がそれである。父親の仕事の疲れや、今日の商談の成否や、電車の混み具合よりも、ピカチュウさんが公園にいたかどうかの方が、あこにとってはずっと大事だった。
「いたよ」
「ほんと? 何してた?」
「麦茶飲んでた」
「また麦茶?」
「また麦茶」
あこは「そっか」と言って、なぜか少し嬉しそうにした。麦茶を飲んでいたという情報だけで嬉しいらしい。吉田さんは鞄を置き、上着をハンガーにかけながら、昼休みの公園で会った小さな友達のことを思い出した。ベンチに座って、赤いポシェットを斜めにかけて、きちんと両前足で麦茶のボトルを持っていた。最初は会釈だけだった相手と、今では缶コーヒーと麦茶を並べて、少しずつ世間話をするようになっている。人生には、そういうこともある。
「今日はね、駅前カフェの話を少し聞いたよ」
「カフェ?」
「ピカチュウさん、そこで働いてるんだって」
あこの目が大きくなった。
「働いてるの?」
「うん。週に何回か。レジとか、テーブル拭きとか、いろいろするらしい」
「すごい」
あこの「すごい」には、十歳なりの本気がこもっていた。吉田さんはうなずいた。たしかにすごい。自分も最初に聞いた時は、思わず聞き返した。けれどピカチュウさんは「勤務しています」と真面目に言ったので、それ以上、子ども扱いのような驚き方をするのは失礼な気がした。
「あと、知らない人からもらったものは、未来さんに報告してから食べるんだって」
「未来さん?」
「ああ、ピカチュウさんの飼い主さん。高橋未来さんっていう人らしい」
あこはその名前を、初めて聞く宝物のように受け取った。
「未来さん」
「うん」
「女の人?」
「たぶん。いや、名前と話を聞く感じでは、そうだと思う。お父さんは会ったことないから、はっきりとは言えないけど」
「ピカチュウさんの飼い主さんなんでしょ?」
「そうらしいね」
「会社で働いてるの?」
「それも、そうらしい。ピカチュウさんが会社に忘れ物を届けたことがあるって言ってた」
あこは、そこでほとんど確信したような顔になった。吉田さんには、その確信の根拠が分からなかった。ただ、十歳の娘の中で、いま何かがきれいな形に組み上がっていることだけは分かった。
その夜、あこは自室の机に向かい、表紙に大きく「ピカチュウさんのこと」と書いたノートを開いた。まだ新しいノートだった。表紙には小さなシールが貼られている。黄色い星と、青い花と、なぜか小さなカップのシールである。あこは父から聞いたことを忘れないように、丁寧に書いていった。
「ピカチュウさんは麦茶がすき」
「公園でお父さんと話す」
「駅前カフェで働いている」
「知らない人からもらったものは、未来さんに報告してから食べる」
「未来さんという飼い主さんがいる」
「未来さんは会社で働いている」
「ピカチュウさんは未来さんを信頼している」
そこまで書いて、あこは少し鉛筆を止めた。未来さん。まだ会ったこともない。写真も見たことがない。父も会ったことがない。知っているのは名前と、会社で働いていることと、ピカチュウさんの飼い主さんだということだけである。
けれど、あこの中ではもう、かなりはっきりした姿になり始めていた。
きっと、すごく仕事ができる。会社の廊下を速く歩いている。髪はつやつやしていて、服もきれいで、でも怖い人ではない。ピカチュウさんに信頼されているのだから、きっと優しい。大事なことをちゃんと分かっていて、困った時には落ち着いている。たぶん、ものすごく美人。
あこはノートの端に、小さく書き足した。
「未来さんは、たぶん仕事ができる超美人」
同じころ、高橋家では、ローテーブルが少し横にずらされていた。
きっかけは、未来さんがスマホで「体幹を鍛えるには片足立ちもよい」という記事を見たことだった。読むだけならよかった。しかし未来さんは、部屋着のまま立ち上がり、ピカチュウに向かって言った。
「ピカ、片足立ちってどれくらいできる?」
ピカチュウは麦茶のコップを持ったまま、少し首をかしげた。
「急ですね」
「第一回・高橋家片足立ち選手権大会を開催します」
「大会ですか」
「参加者二名、観客ゼロ、賞品なし」
「かなり小規模です」
「でも由緒は今から作る」
ピカチュウはコップをテーブルに置き、真面目な顔で立ち上がった。大会と言われたからには、ルールを確認する必要がある。
「しっぽは使用可能ですか」
「しっぽは体の一部だから、まあ、ありかな」
「では、使用します」
「ちょっと有利じゃない?」
「体の一部です」
「正論で押してくる」
未来さんは片足を上げた。ピカチュウも片足を上げた。部屋着の社会人と、推定三歳の特定齧歯類等が、夜の部屋で真剣に片足立ちをしている。世界は広い。
「いち、に、さん……」
未来さんが数え始めたが、八秒あたりで少し揺れた。
「未来さん、かなり揺れています」
「まだいける」
「十秒です」
「まだ、まだ……うわっ」
十二秒で未来さんはソファに手をつき、そのまま笑い出した。ピカチュウはまだ立っていた。しっぽが少しだけ床の近くでバランスを取っている。
「ピカ、強い」
「しっぽがありますので」
「しっぽ強いな」
「体の一部です」
未来さんは笑いながら床に座った。ピカチュウもようやく足を下ろした。第一回・高橋家片足立ち選手権大会は、観客ゼロのまま、だいたい平和に終わった。
数日後の昼休み、吉田さんはいつもの公園のベンチに座っていた。手には缶コーヒーがある。少しぬるくなる前の、昼休みにちょうどいい温度だった。やがて、いつものようにピカチュウがやってきた。赤いポシェットを斜めにかけ、麦茶の入った小さなボトルを持っている。
「こんにちは、吉田さん」
「こんにちは、ピカチュウさん」
二人は並んで座った。吉田さんは缶コーヒーを開け、ピカチュウは麦茶のボトルを開けた。最初のころは、会話の間に少し長い沈黙があった。今も沈黙はあるが、それは気まずいものではなくなっていた。外回りの途中の缶コーヒーと、散歩の途中の麦茶が、同じベンチで休んでいるだけである。
「娘がですね」
吉田さんがふと思い出したように言った。
「ピカチュウさんのことを、ノートに書き留めてるんですよ」
ピカチュウは麦茶のボトルを持ったまま、少し目を丸くした。
「ノートですか」
「はい。“ピカチュウさんのこと”って表紙に書いて。私が話したことを、忘れないようにメモしてるみたいで」
ピカチュウはしばらく真面目に考えた。ノートに大事なことを書いておく。それは、ピカチュウにとってよく分かる行為だった。砂糖と塩の見分け方も、図書館への道も、未来さんの会社の住所も、生活で覚えた大切なことは星柄ノートに書いてある。忘れないために書く。困った時に見返すために書く。書くことで、大事なことが少し自分のものになる。
「大事なことを書くノートですね」
ピカチュウは言った。
「本人にとっては、かなり大事みたいです」
「それは、仲間かもしれません」
吉田さんは少し笑った。十歳の娘と推定三歳のピカチュウさんが、ノートを書く仲間。考えてみれば不思議だが、たしかに少し似ているのかもしれない。
「それでですね、未来さんのことも、娘の中でかなりすごい人になってまして」
「未来さんですか」
「はい。会ったこともないのに、ものすごく仕事のできる美人さんだと思ってるらしいんです。私もお会いしたことはないんですけどね」
吉田さんは、そこを念のため付け加えた。自分は未来さん本人を見たことがない。ピカチュウさんから話を聞いただけである。だから、娘の想像が合っているのかどうか、父親として判断する材料がない。
ピカチュウは、しかし、あまり迷わなかった。
「未来さんは仕事をしています」
「はい」
「美人です」
「そこは合ってるんですね」
「はい。概ね合っています」
ピカチュウは真剣だった。未来さんは朝が少し弱いし、コーヒーをこぼしそうになることもあるし、買い物では予定外の商品をカゴに入れやすい。しかし仕事はしている。美人でもある。だから、あこさんの見立ては大きく間違っていない。
「でも」
ピカチュウは少しだけ付け加えるように言った。
「先日は二人で片足立ち勝負をしました」
吉田さんは、缶コーヒーを口元に運ぶ途中で止まった。
「片足立ち勝負、ですか」
「はい」
「未来さんと?」
「はい」
ピカチュウの説明は、それで終わった。第一回・高橋家片足立ち選手権大会という名称も、参加者二名、観客ゼロ、賞品なしだったことも、しっぽの使用可否をめぐる協議も、未来さんが十二秒でぐらついたことも、何も語られなかった。ただ、「先日は二人で片足立ち勝負をしました」という一行だけが、昼休みの公園に置かれた。
吉田さんは「そうですか」と言った。ほかに何と言えばいいのか分からなかった。ピカチュウさんが真面目なので、冗談なのか生活情報なのか、判別が難しい。ただ、未来さんという人が、仕事をしていて、美人で、なおかつ家で片足立ち勝負をするらしいということだけが分かった。
その夜、吉田さんが帰宅すると、あこはまた玄関の近くまで来た。
「今日、ピカチュウさんいた?」
「いたよ」
「何話した?」
吉田さんは鞄を置きながら、昼休みの会話を思い出した。さて、どこから話すべきか。娘はもうノートを持っていた。完全に聞き込みの姿勢である。
「ええと、まず、未来さんのことなんだけど」
「未来さん!」
あこの反応が早い。
「ピカチュウさんによると、未来さんは仕事もしてるし、美人なんだって」
あこの顔がぱっと明るくなった。
「やっぱり」
「やっぱりなんだ」
「絶対そうだと思ってた」
あこはその場でノートを開き、鉛筆を走らせた。
「未来さんは仕事ができる」
「未来さんは美人」
吉田さんは横から見て、「仕事ができる」とまでは言っていないな、と思った。しかし、ピカチュウさんが「仕事をしています」と言い、娘がそれを「仕事ができる」に変換したのである。間に少しだけ何かが足されている。けれど、吉田さん自身も未来さんに会ったことがないので、そこを強く訂正するほどの材料はなかった。
「あとは?」
あこが顔を上げる。
「え?」
「ほかに何か言ってた?」
吉田さんは少し迷った。そして、昼休みの公園で受け取った、文脈の少ない一行をそのまま渡した。
「片足上げ勝負とかもするらしいよ」
「片足上げ勝負?」
「うん。ピカチュウさんと未来さんで」
あこは一瞬だけ考えた。それから、すぐに納得したような顔になった。
「体幹トレーニングだ」
「そうかな」
「家でもエクササイズしてるんだ」
「そういう話だったかな」
「すごい」
あこはノートに書き足した。
「未来さんは家でもエクササイズを欠かさない」
「ピカチュウさんと一緒に体幹トレーニングをしている」
「多分スタイルがいい」
少し考えてから、さらに小さく書いた。
「たぶんナイスバディ」
吉田さんはそれを見て、どうしたものかと思った。片足立ち勝負という言葉から、どうしてそこまで美しい方向へ進むのか分からない。しかし、父親が「違う」と言えるほど、未来さんを知っているわけでもない。未来さんは本当に美人らしい。仕事もしているらしい。ピカチュウさんから信頼されているらしい。そして片足立ち勝負もするらしい。情報だけを並べれば、あこの想像が絶対に間違っているとも言い切れないところが、話をややこしくしていた。
あこはその後も、ノートの端に未来さんの想像図を小さく描いていた。もちろん顔は分からないので、長い髪のきれいな大人の女性になっている。服はなぜかスーツで、横にはピカチュウさんがいる。ピカチュウさんは麦茶を持っている。そこはかなり正確だった。
「未来さんって、夜ごはん何食べてるんだろう」
あこがぽつりと言った。
「さあ。お父さん、そこまでは知らないなあ」
「たぶん、フランス料理のフルコースとかだと思う」
「毎日?」
「毎日じゃないかもしれないけど、今日はたぶん」
吉田さんは「今日はたぶん」の根拠がどこにあるのか聞こうとしたが、あこはもうノートに書いていた。
「未来さんは今日は多分フランス料理のフルコース」
そのころ、高橋家では、ローテーブルの上にスルメの袋が開いていた。
未来さんは部屋着で床に座り、片手に発泡酒の缶を持っている。ピカチュウの前には麦茶のコップがあった。袋を開けた瞬間から、部屋にはかなり強いにおいが広がっていた。
「うわ、今日のスルメ、くさっ」
未来さんが笑いながら言った。
ピカチュウは一切れを両前足で持ち、慎重ににおいを確認した。
「かなり強いです」
「強いよね。袋開けた瞬間、部屋の空気変わったもん」
「換気が必要かもしれません」
「でも、おいしいんだよね」
「はい。においと味は別です」
未来さんは発泡酒をひと口飲み、ピカチュウは麦茶を飲んだ。スルメはくさかった。くさいが、おいしかった。未来さんが噛むたびに「やっぱりくさい」と笑い、ピカチュウが「でも、おいしいです」と真面目に返すので、また笑いが起きた。
あこのノートの中では、未来さんは仕事ができる超美人で、家でもエクササイズを欠かさず、たぶんスタイルがよく、今日はフルコースを食べていることになっていた。
現実の高橋家では、スルメの袋がもう半分近く空いていた。
ピカチュウはスルメを噛みながら、ふと今日の公園で聞いたことを思い出した。
「未来さん」
「ん?」
「あこさんは、ノートを書くそうです」
「吉田さんの娘さん?」
「はい。“ピカチュウさんのこと”を書いているそうです」
未来さんは少しだけ驚いたあと、やわらかく笑った。
「そっか。ピカ、ノート仲間できたじゃん」
「はい。まだ会っていませんが、仲間かもしれません」
「会う日が楽しみだね」
ピカチュウは少し考えた。まだ会っていない。吉田さんの娘さん。十歳の先輩。ノートを書く人。ピカチュウのことを忘れないように書いている人。
「いつか会う時は、失礼のないようにします」
「ピカはだいたいいつも礼儀正しいよ」
「十歳の先輩ですので」
「そこは譲らないんだ」
未来さんは笑って、またスルメを噛んだ。そしてすぐに「やっぱりくさい」と言った。ピカチュウも少し笑った。スルメのにおいは強く、麦茶はいつも通りで、発泡酒の缶には水滴がついていた。
その夜、あこはノートの最後に小さく「いつか会う」と書いた。
同じ夜、ピカチュウは星柄ノートに、「吉田さんの娘さんは、あこさん」「十歳」「ノートを書く」「大事なことを書いている」「いつか会う時は、失礼のないようにする」と書いた。
二人はまだ会っていない。
けれど、それぞれのノートの中で、ほんの少しだけ近づいていた。
