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【スピンオフ】天才・徳川慶喜の敗戦処理:番外編​7. 西郷隆盛:天才への敬意と、砕け散った「最後の敗戦処理」

​ ​討幕派のカリスマ、西郷隆盛。彼にとって徳川慶喜は、大久保利通が感じたような「排除すべき政治的怪物」だけではありませんでした。敬愛する主君の遺志、武士としての情、そして日本という国への愛……それらが複雑に絡み合う、「最も倒しにくく、しかし最も守りたかった敵」だったのです。

​■ 斉彬から受け継いだ「慶喜への呪縛」
 ​西郷の慶喜に対する感情の根源には、常に亡き主君・島津斉彬の存在がありました。
​家康の再来: 斉彬は、西郷に対して「一橋(慶喜)こそは家康公の再来、この男に日本の未来を託す」と語っていました。西郷にとって慶喜は、**「自分が人生を捧げた斉彬が、命を懸けて将軍にしようとした男」**でした。
​挫折と恨み: しかし、安政の大獄で斉彬の計画は潰され、斉彬自身も急死。西郷は絶望し、二度の島流しという地獄を味わいます。この時、西郷の中に「有能な慶喜を使いこなせない徳川幕府」への激しい恨みが生まれ、それが「討幕」への原動力となりました。

■ 怪物への進化:慶喜を「殺す」という決断と、敵前逃亡への「安堵」
 ​島から戻った西郷は、大久保と共に薩摩藩の軍事トップとして慶喜と対峙します。しかし、京都での慶喜の政治手腕(一会桑政権)は西郷の想像を超えていました。論理で諸藩をねじ伏せ、フランスを味方につけて軍を近代化させる慶喜。
​ 大久保との共鳴と情の断絶: 「話し合えば慶喜に絡め取られる」。西郷は大久保と同じ結論に達し、斉彬への義理や慶喜の器量への敬意を一度捨て去る決断をします。「慶喜公には死んでもらわねばならん」。西郷は、慶喜を朝敵(賊軍)にし、武力で討つという冷徹なシナリオの実行犯になることを引き受けたのです。
​ 鳥羽・伏見の敗走と複雑な心境: 戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)が勃発し、西郷率いる近代軍が幕府軍を圧倒。敗色が濃厚になると、慶喜は家臣たちを置き去りにして江戸へ逃亡します。この「敵前逃亡」を聞いた時、西郷は武士としての幻滅を感じると同時に、**「これで慶喜公を戦場で(自分の手で)殺さずに済む」という、人間としての深い安堵を覚えたはずです。西郷は、慶喜が逃げたことで、逆に「慶喜の命を救う道」**を模索し始めます。

​■ 江戸無血開城:勝海舟との「阿吽の呼吸」
 ​1868年3月。新政府軍の総大将として江戸へ迫る西郷の前に、勝海舟が立ちはだかります。勝は、慶喜がすでに江戸城で謹慎し、一切戦う意思がないことを伝えました。
​ 「日本」という全体最適と斉彬の影: 勝は西郷に、「江戸を焼けば、日本は再起不能になり、諸外国の植民地になる」と説きました。西郷は、勝の「理」を受け入れました。しかし、それ以上に西郷を動かしたのは、勝が伝えた**「慶喜の沈黙(泥を被ってでも日本を救おうとする覚悟)」**でした。西郷はそこに、かつて斉彬が愛した「家康の再来」としての器量を、再び見たのです。
 西郷は、自分の首(総大将としての責任)を賭けて、江戸総攻撃の中止を決断しました。慶喜の命を救うことが、斉彬の遺志に叶い、そして「日本」という国を救う唯一の道だと信じたのです。

​■ 明治の征韓論:西郷が試みた「最後の敗戦処理」
 ​明治政府誕生後、西郷は武士たちの不満を一手に引き受ける役割を担います。慶喜の「無血開城」や大久保の「廃藩置県」「廃刀令」により、数百万人の武士たちは特権と給与を失い、路頭に迷いました。国内で大規模な内戦が起きてもおかしくない状況でした。西郷が唱えた「征韓論(朝鮮半島への遣韓使節)」には、国内事情と安全保障上の二つの切迫した理由がありました。

​1. 国外の理由:安全保障上の「防波堤」を作る(ロシアへの恐怖)
​最大の脅威であったロシアの南下を防ぐため、地政学的に重要な朝鮮半島を日本主導で近代化させ、**「共同の防波堤」**にしようと考えました。

​2. 国内の理由:不満を持つ武士たちの「巨大なエネルギー」を外へ逃がす(武士の救済)
​「戦争のプロ」でありながら失業者となった武士たちに、国外への軍事行動(または外交交渉)という新しい役割を与えることで、国内の治安を守ろうとしました。西郷自身が望んだのは、自らが命を懸けた使節として朝鮮へ行き、交渉が決裂すれば自分が死ぬことで国内の武士たちの暴動を抑え、同時に朝鮮問題を解決しようとした、悲壮な「敗戦処理」でした。

​■ 結果:大久保との衝突と「孤独な最期」
 ​しかし、岩倉使節団から帰国した大久保利通たちは、「今は国内の近代化が最優先だ」と猛反対しました。自分の最後の策(遣韓使節)を潰された西郷は政府を去り、鹿児島へ戻ります。

 ​西郷という「重石」を失った政府に対し、武士たちのエネルギーは国外ではなく、国内で爆発しました。西南戦争(1877年)が勃発し、西郷は不満を持つ士族たちに担がれ、かつての同志である大久保の新政府軍と戦うことになります。
​ 西郷は、慶喜が「戦わない」ことで守ろうとした「武士の世」の最後の残り火として、自分が作った近代軍に追いつめられ、鹿児島・城山で自害しました。享年49。

​💡 著者より
 ​西郷隆盛にとって徳川慶喜は、「人生で最初に憧れ、最後にその命を救い、そして彼が捨てた『武士の世』と共に自分が死んだ」という、運命の相手でした。慶喜が「高度な敗戦処理(無血開城)」を完遂できたのは、西郷という「敵」が、慶喜の知性を誰よりも敬愛し、彼を賊軍にしながらも、その魂までを殺すことはできなかったからなのです。

​【次回予告】
 ​西郷や大久保という討幕派の巨頭たちが去った後、明治の日本を経済の力で支え、主君・慶喜の「敗戦処理」をビジネスという形で完成させた男。慶喜がフランスに派遣し、その才能を経済の分野で開花させた、渋沢栄一。
​彼は、主君・慶喜の「教え」を、どう新しい時代に繋げたのか?
次は、「慶喜の教え子:渋沢栄一編」

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