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苦を知る

私はタイで生まれ育ちました。小さい頃から、ずっとおばあちゃんと一緒に暮らしています。私たちは仏教徒です。タイでは「仏日(ぶつじつ/お寺に行く日)」が休日に当たると、よくおばあちゃんと一緒にお寺に行きました。
お寺へ行くときは、お供え物やお花を持って行きます。
お寺ですることといえば、意味の分からないお経と、お坊さんのお話を聞くだけです。
でも、家に帰る頃には、いつも心が少し軽くなっていました。
きっと、お坊さんのお経を聞くことで、心が落ち着くのだと思います。
おばあちゃんは、特別に「仏法」という形で教えてくれたことはありません。
でも、日常の会話の中に、自然と仏教の考え方が入っていました。
村の誰かが病気になったとき、あるいは亡くなったとき、おばあちゃんはよくこう言いました。
「人間はみんな、生まれて、老いて、病んで、そして死ぬもんだよ。
それが自然なんだよ。」

村の誰かが亡くなると、家でお葬式をします。
お葬式の雰囲気は、悲しいけれど、ただ静かなだけではありません。
かといって、楽しい雰囲気でもありません。
みんなが「死」というものを受け止めて、
残されたご家族をそっと励ましたり、一生懸命お手伝いしたりします。
村の人たちは役割を分担して、三日間のあいだ、交代でその家に集まり、
一緒に過ごします。
お葬式が終わるまでの三日間はとても忙しいです。
でも、村のみんなが一緒にいてくれるので、
ご家族は少しずつ気持ちの整理ができていき、
四日目には、いちばん苦しい悲しみの波が、少しおさまっているように見えます。
お葬式の間、お坊さんは毎日、家に来てお参りをしてくれます。
お昼はお経をあげて、お参り。
夜は、お話の時間です。
お坊さんの話は、悲しい話ではありません。
むしろ、仏教に関する話を、少し笑いを交えながら、
分かりやすく聞かせてくれます。

最後の日、お葬式が終わると、村の共同墓地で火葬をします。
三日後くらいに、遺骨を拾います。
拾った遺骨は、焼き物の壺に入れて、
墓地の中の木の下に埋めます。
埋める場所はどこでもよく、特別な区画が決まっているわけではありません。
そこで一通りのことは終わりです。
そのあと、わざわざその木のところへ手を合わせに行く人は、ほとんどいません。
お墓という形もありません。
遺骨は、ただ静かに土に還り、
完全に「自然」に戻っていきます。
そのかわり、百か日や、お正月の法要などは、お寺で行います。

タイで育った私は、子どもの頃からずっと、
「人間はみんな、生まれて、老いて、病んで、そして死ぬ」
という言葉を聞いてきました。
そのせいか、人からはよく「強そう」「冷静そう」と言われます。
小さい頃から「苦しみも、老いも、病も、死も、
誰にでも起こる自然なものだ」と聞かされて、
どこかで受け入れてきたからかもしれません。
これも、ひとつの「日常の仏法」なのでしょうか。

人はみな、生まれ、年をとり、病気になり、そして、いつか死にます。
この流れから逃れられる人は、一人もいません。
それが「自然」です。
生きものの自然な決まりは、「次のいのちにつなぐこと」、
つまり「子孫を残すこと」です。
生きるために。
子孫を残すために。
その途中で、「苦しみ」を生み出すものも、一緒に生まれます。
たとえばーー




怒り

何かに溺れること(執着すること)

赤ちゃんを産むためには「愛」が必要。
成長するためには「欲」が必要。
自分を守るためには「怒り」が必要。
物事をやり遂げるためには、何かに「夢中になること(少し溺れること)」も必要です。
でもーー
愛されなかったと感じたとき、それは「苦」になります。
欲が叶わないときも、「苦」になります。
怒りに任せてしまうと、「苦」になります。
何かに溺れ、現実が見えなくなると、それもまた「苦」につながります。
それでも、もし私たちが
「人生には苦しみがあるものだ」
と、静かに受け止めることができたなら。
その「苦しみ」の重さを、少しだけ軽くすることが
できるのかもしれません。

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