ホラー掌編:『追い越し女』
深夜の住宅街。雨など一滴も降っていないのに、前を歩くその女はビニール製のレインコートを着ていた。
女が街灯の下を通り過ぎるたび、本来なら透明なはずのレインコートが、赤黒く汚れているのが見えた。
関わらないでおこう……。
女の歩みは、ゆっくりしている。
足早に追い越そうとした、その時だった。
女が不意に立ち止まった。
背中を向けたままの女の首が、ギギギ……と嫌な音を立てて、180度真後ろへ回転した。
長い前髪の隙間から覗く、焦点の合わない濁った眼。顔立ちは綺麗なのに、背中を向けたまま、顔だけが完全にこちらを向いている。
「追い越して、いいですよ」
女の唇が開き、ヒュウ、と息が漏れた。
異常だ。逃げ出したい。だが、女の眼がじっとこちらを見据えている。踵を返して背を向ければ、そのまま追いかけてきそうで怖かった。
しかたなく、迂回するように女の横を通り過ぎる。
その間、女の首は私の動きに合わせてゆっくりと回転し続けた。どんなに私が視線を逸らそうとしても、まるで磁石のようにしっかりと目が合ったままだ。
すれ違いざまに、女のレインコートから鉄錆の匂いが鼻を突いた。やけに生々しい臭い。
息を止め、急ぎ足で女を追い越す。
背を向けた瞬間、心臓が早鐘を打ち始めた。
背後から、ペチャ、ペチャと、長靴が水溜まりを踏むような、不気味な足音がついてくる。
走ったら追いかけられる。そんな根拠のない確信があり、私はただひたすらに早歩きで自宅のアパートを目指した。
足音が、ついてくる。
振り返ってはいけない。絶対に。
街灯に照らされたアパートが見えてきた。
足音は、すこし離れている。
ようやく見慣れた自分の部屋のドアの前に辿り着いた。
震える手でポケットから鍵を取り出す。
その間に、女の足音が、追いついてきた。
鍵が、鍵穴にうまく挿さらない。
ペチャ、という足音がすぐ背後まで迫っていた。
ガリッ。なんとか鍵穴に鍵が挿さる。鍵が外れる。
音は? 足音は?
ドアノブに手をかけた瞬間、私は限界に達し、おそるおそる、背後を振り返った。
――誰もいない。
深夜の静寂な廊下には、虫の音だけが響いている。
なんだ、気のせいだったのか。極度の緊張から解放され、私はホッと長く息を吐いた。
早く中に入ろう。
そう思って前を向こうとした、その瞬間だった。
「ギギギ……ッ」
自分の首が、見えない万力で固定されたように動かなくなった。
身体は前方のドアに向かっているのに、首だけが後ろを向いたまま、どうしても正面に戻すことができない。
パニックに陥る私の頭の後ろで、
――ガチャリ。
私が手をかけていたはずの玄関のドアが、内側から開いた。
わたしは後ろ向きのままドアに押され、たたらを踏む。
「おかえりなさい」
家の中から、女の声がした。
「立ち止まるから、追い越しちゃった」
女の声が、そう言った。
