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ゾンビとは何か――砂糖、宗教、産業革命から読み解く人間と文明の歴史(4)

第四章 ゾンビとは何か――文明を映す鏡


1.ロメロが変えたもの

1968年。

アメリカ、ペンシルベニア州の廃墟となった農場。 白黒映像の中で、死者たちが甦り、人を喰らい始める。

ジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は、 こうして現代のゾンビ像をほぼ完成させた。

腐敗した肉体。 虚ろな目。 引きずるような足取り。 噛まれた者も同じゾンビになる。

しかしこの映画を単なるホラーとして見ると、 ロメロが本当に描こうとしたものを見落とす。

1968年とはどんな年だったか。

ベトナム戦争が泥沼化し、 マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺され、 ロバート・ケネディが暗殺され、 大学では反戦運動が燃え上がり、 アメリカ社会は深く分断されていた年だった。

そしてロメロは、その年に、 主人公として黒人男性を選んだ。

ベン。 知性的で、冷静で、正しい判断を下し続ける男。 農場に逃げ込んだ白人たちをリードし、 ゾンビの包囲から人々を守ろうとする。

そして映画の結末で、ベンは生き残る。 ゾンビの群れをかいくぐり、夜明けを迎える。

しかしその瞬間、 外にいた白人の民兵たちに射殺される。

ゾンビと間違えられて。

これは1968年のアメリカで何を意味するか。

ゾンビよりも人間の方が恐ろしい。 正しい者が、理不尽に殺される。 そして殺す側は、自分が何をしたか気づいていない。

ロメロの最初のゾンビ映画は、 怪物の話ではなかった。

アメリカの人種差別への、 静かで深い告発だった。


2.ショッピングモールのゾンビたち

1978年。 ロメロは続編を作る。

『ゾンビ(Dawn of the Dead)』。

舞台はショッピングモールだ。

四人の生存者たちが、ゾンビであふれる世界でモールに立てこもる。 食料があり、 衣服があり、 電気がある。 生存に必要なものは全て揃っている。

しかしゾンビたちもまた、モールへと集まってくる。

なぜか。

作中で登場人物がつぶやく。

「生前の記憶が残っているのかもしれない」

生きていた頃、何度も来た場所。 買い物をした場所。 時間を潰した場所。 幸せを感じたと思っていた場所。

だから死後も、ここへ来る。

ゾンビたちはモールの中をさまよい歩く。 目的もなく。 意味もなく。 ただ動き続ける。

この映像を見ながら、ロメロは観客に問いかける。

「あなたたちも、同じではないか」と。

1978年のアメリカは、消費社会が爛熟した時代だった。 テレビコマーシャルが人々の欲望を刺激し、 クレジットカードが普及し、 ショッピングモールが郊外に次々と建てられた。

何かを買う。 しばらく満足する。 また欲しくなる。 さらに買う。

その循環の中で、 人々は何を求めていたのか。

幸福か。 充足感か。 あるいは、 自分が「何者か」という証明か。

ロメロは答えを与えない。 ただ映像を差し出す。

ゾンビがさまようモールと、 人間が買い物をするモール。

その二つの映像が、 観客の脳内で重なり合うように。


3.管理されたゾンビ、使われるゾンビ

1985年。 ロメロは三作目を作る。

『死霊のえじき(Day of the Dead)』。

この作品では、軍と科学者が登場する。

科学者バブは、ゾンビを「調教」しようとしている。 ゾンビに名前を呼ばれると反応させ、 剃刀で髭を剃らせ、 カセットテープで音楽を聴かせる。

バブは少しずつ「人間らしさ」を取り戻していくように見える。

一方、軍はゾンビを兵器として利用することを考えている。 感情がなく、 疲れを知らず、 命令に従い、 死を恐れない。 完璧な兵士ではないか、と。

この映画でロメロが問いかけているのは何か。

「管理できればゾンビは怖くないのか」 「利用できれば存在を認めるのか」

それは、 人間が人間に対してやってきたことそのものではないか。

管理できる奴隷は許容される。 使える労働者は歓迎される。 役に立つ限り、存在を認められる。

しかし人格は必要ない。 意思は邪魔だ。 問いを持つことは危険だ。

ロメロの三部作を通じて見えてくるものがある。

第一作は「誰がゾンビを決めるのか」を問うた。 第二作は「消費することでゾンビになるのか」を問うた。 第三作は「管理されることでゾンビになるのか」を問うた。

そしてその三つの問いは、 第一章から第三章で私たちが辿ってきた歴史と、 驚くほど正確に対応している。

ハイチの奴隷制度。 「誰がゾンビを決めるのか」は、 まさに奴隷主が奴隷に対してやってきたことだった。

産業革命の工場労働。 「管理されることでゾンビになるのか」は、 時計と賃金で人間を管理するシステムそのものだった。

消費社会。 「消費することでゾンビになるのか」は、 砂糖から始まり、フィッシュ&チップスを経て、 現代のジャンクフードと大量消費へとつながる問いだった。

ロメロはゾンビ映画を作ったのではなかった。

人類の歴史を、ゾンビという鏡に映して見せたのだ。


4.注意という資源――現代のゾンビ工場

さて。

ロメロが『ゾンビ』を作った1978年から、半世紀近くが経った。

ショッピングモールは今も存在する。 しかし、より巨大なモールが生まれた。

スマートフォンという、 ポケットの中のモールだ。

現代の私たちが直面しているのは、 「注意経済(アテンション・エコノミー)」と呼ばれる構造だ。

インターネット上のプラットフォームは、 広告によって収益を得る。 広告の価値は、 どれだけ多くの人が、 どれだけ長く画面を見ているかによって決まる。

つまり、 人々の「注意(アテンション)」そのものが商品になった。

そしてそのために、プラットフォームは人間の脳の仕組みを徹底的に研究し、利用する。

ドーパミン。

脳内で分泌されるこの物質は、 報酬への「期待」によって放出される。

何か良いことがあるかもしれない。 誰かから反応があるかもしれない。 面白い情報があるかもしれない。

その「かもしれない」という期待が、人を画面に引き寄せる。

SNSの「いいね」。 動画の自動再生。 プッシュ通知。 無限スクロール。

これらは偶然の設計ではない。 人間の脳のドーパミン回路を最大限に刺激するよう、 意図的に設計されたものだ。

スロットマシンが依存性を持つのは、 「時々当たる」という不規則な報酬がドーパミンを最も強く刺激するからだ。 SNSの通知も、全く同じ原理で機能する。

スマートフォンを手に取る。 通知を確認する。 スクロールする。 動画を見る。 また通知が来る。 確認する。 また見る。

気がつけば一時間が過ぎている。 何を得たのか、よくわからない。 しかしやめられない。

これはロメロのゾンビと、何が違うか。

目的なくさまよう。 ただ動き続ける。 本能的な引力に従う。 自分の意思がどこにあるかわからない。

フェイスブックの初代社長숀・パーカーは、 後年こう告白している。

「私たちは意図的に、人間の心理の脆弱性を突くシステムを作った」

これは陰謀論ではない。 ビジネスモデルの構造的な帰結だ。

プラットフォームの利益は、 人々が画面を見続けることで生まれる。 だから、 人々が画面を見続けるよう設計される。

そのシステムの中で、 人間は「注意」という資源を採掘される側になっている。

砂糖プランテーションで、 奴隷たちの労働が採掘されたように。

産業革命の工場で、 労働者たちの時間が採掘されたように。

形は変わった。 しかし構造は、驚くほど似ている。


5.砂糖とスマホ――甘い支配の現代形

ここで、第一章の問いに戻りたい。

砂糖はなぜ人間を支配できたのか。

それは、砂糖が「気持ちいい」からだ。

口に入れた瞬間、脳に快感が生まれる。 疲れが一時的に消える。 また食べたくなる。

しかしその快感は長続きしない。 だからまた砂糖を求める。 また快感を得る。 また消える。 また求める。

この循環は、現代のスマートフォンと全く同じ構造だ。

通知を確認する。 快感が生まれる。 消える。 また確認したくなる。

砂糖が奴隷を「自発的に」働かせ続けた燃料だったように、 スマートフォンは現代人を「自発的に」画面に向かわせ続ける燃料だ。

そして決定的な共通点がある。

どちらも、根本的な問いから人を遠ざける。

砂糖の甘さは、 「なぜ私はここで働かされているのか」という問いを、 一時的に忘れさせる。

スマートフォンの刺激は、 「自分は何のために生きているのか」という問いを、 一時的に忘れさせる。

その一時的な忘却が、 構造全体を維持する。

問いを持つ人間は、 システムにとって不都合だ。

なぜ私はここで働くのか。 なぜこれほど消費しなければならないのか。 何が私を本当に満たすのか。 自分は今、自由なのか。

これらの問いが広がれば、 砂糖プランテーションは崩壊する。 工場は回らなくなる。 プラットフォームは収益を失う。

だから、 甘さは問いを忘れさせるために機能する。

ハイチの奴隷たちは、糖蜜でその問いを忘れさせられた。 産業革命の労働者たちは、甘い紅茶でその問いを忘れさせられた。 現代の私たちは、スマートフォンの通知でその問いを忘れさせられている。

時代は変わった。 甘さの形は変わった。 しかし構造は変わっていない。


6.ゾンビと人間の境界線

では、 ゾンビと人間を分けるものは何か。

ここで、この長い旅全体を振り返りたい。

第一章で見たハイチの奴隷たちは、 全てを奪われながらブードゥー教を生み出した。

彼らはなぜゾンビにならなかったのか。

歌った。 踊った。 祖先を呼んだ。 仲間と祈った。 自分たちには魂があると、繰り返し確認した。

第三章で見た黒人教会の人々も、 同じことをした。

ゴスペルを歌った。 身体全体で祈った。 共同体の中で名前を呼ばれた。 尊厳を確認し合った。

彼らに共通しているのは何か。

問いを手放さなかったことだ。

「私たちは何者か」 「私たちには魂があるか」 「私たちには未来があるか」

その問いを、どんな状況でも持ち続けた。 そして問いに答えるための共同体を作った。

一方、 アンチャーチゾーンで起きたことは何だったか。

問いを持つ場所が消えた。 問いを共有する仲間が消えた。 問いに答えを与えてくれる物語が消えた。

肉体は生きている。 しかし問いを失った。

それがゾンビ化の本質だと、 この旅を通じて見えてきた。

ゾンビとは何か。

腐った死体ではない。

問いを失った存在だ。 「自分は何者か」を問えなくなった存在だ。 未来を想像できなくなった存在だ。 共同体を持てなくなった存在だ。 魂の居場所を失った存在だ。

そして、その状態は、 今この瞬間にも、 静かに、 しかし確実に広がっている。


7.なぜゾンビ映画は作られ続けるのか

少し引いて考えてみる。

なぜゾンビ映画は、何十年経っても作られ続けるのか。

恐怖映画のジャンルは多い。 幽霊。 殺人鬼。 宇宙人。 モンスター。

しかしゾンビは、それらと決定的に違う点がある。

ゾンビは、「かつて人間だった」という点だ。

幽霊は死後の存在だ。 殺人鬼は異常な人間だ。 宇宙人は別の存在だ。

しかしゾンビは、 昨日まで普通に生きていた誰かだ。 隣人かもしれない。 家族かもしれない。 友人かもしれない。

そして、 噛まれた自分も、同じゾンビになる。

この「感染」という要素が、ゾンビを他の怪物と根本的に異なるものにしている。

ゾンビ映画を見る観客は、 ゾンビに恐怖を感じると同時に、 「自分もああなるかもしれない」という恐怖を感じる。

それは外からやってくる恐怖ではない。 内側からの恐怖だ。

自分が少しずつゾンビになっていくかもしれない。 気づかないうちに、 問いを失っているかもしれない。 魂の居場所をなくしているかもしれない。 誰かに操られているかもしれない。

その恐怖が、 ゾンビ映画を見続けさせる。

そして同時に、 ゾンビ映画はその問いへの答えも示す。

ゾンビ映画の中で、生き残る人間はどんな人々か。

誰かを愛する人。 仲間のために動く人。 未来を諦めない人。 問いを持ち続ける人。

自分だけが生き延びようとした者は、 多くの場合、ゾンビよりも醜い姿で描かれる。

ゾンビ映画は、 怪物から逃げる話ではなかった。

人間であり続けることの難しさと、 それでも人間であり続けようとする意志を描いた物語だったのだ。


8.ゾンビとは何か――この旅の答え

長い旅だった。

ゾンビという奇妙な存在を追いかけて、 私たちはハイチの砂糖プランテーションから始まり、 ブードゥー教の儀式を見つめ、 大西洋を渡り、 産業革命のイギリスを歩き、 フィッシュ&チップスが生まれた路地に立ち、 教会が消えていく都市を見渡し、 黒人教会のゴスペルに耳を傾け、 アンチャーチゾーンの静けさを感じ、 ロメロのショッピングモールを通り抜け、 そして今ここにいる。

時代ごとに、ゾンビは姿を変えてきた。

ハイチの人々にとってのゾンビは、 死んでも働かされる恐怖だった。 魂を抜かれ、主人の命令に従うだけの存在。 それは奴隷制度が生み出した、最も深い絶望の形だった。

産業革命の時代、 ゾンビは時計と汽笛の形をとった。 鎖も鞭もないのに、 人間は機械のリズムに従って動き続けた。 食事は燃料になり、 共同体は解体し、 時間は効率に変換された。

ロメロが描いたゾンビは、 ショッピングモールをさまよう消費者の姿だった。 何かを求め続けながら、 何も満たされない存在。 目的なく動き、 本能的な引力に従い、 自分がなぜそこにいるのかを問えない存在。

そして現代のゾンビは、 スマートフォンの画面の前にいる。 通知に反応し、 スクロールし、 「いいね」を集め、 一日が終わる。 何を得たのかわからないまま、 また翌日が始まる。

時代は変わった。 形は変わった。

しかしゾンビが問いかけてきたものは、 驚くほど変わっていない。

「あなたは自分の意思で動いているか」

「あなたは自分が何者かを知っているか」

「あなたには、魂の居場所があるか」

この三つの問いが、 ゾンビというイメージが何世紀にもわたって生き続けてきた理由だ。


9.人間とは何か――問い続けることの意味

ではどうすればいいのか、という問いが浮かぶかもしれない。

スマートフォンを捨てるべきか。 消費をやめるべきか。 教会に通うべきか。

そのような具体的な処方箋を、この文章は持っていない。

ただ、この旅全体を通じて見えてきたことが一つある。

全てを奪われたハイチの奴隷たちは、ゾンビにならなかった。 物質的には何も持っていなかった。 自由も、財産も、言語も、家族も、失った。

それでもゾンビにならなかった。

なぜか。

問いを手放さなかったからだ。

「私たちは何者か」 「私たちには魂があるか」 「私たちには未来があるか」

その問いを持ち続けるために、 ブードゥー教という場所を作った。 歌い、踊り、祖先を呼んだ。

アメリカの黒人たちも同じだった。 黒人教会という場所で、 週に一度、自分たちが人間であることを確認した。 ゴスペルで魂の声を上げ、 共同体の中で名前を呼ばれた。

そしてその積み上げの中から、 公民権運動が生まれた。 「私たちには夢がある」という言葉が生まれた。

人間を人間たらしめているものは何か。

この旅の答えは、こうだ。

それは問いだ。

「自分は何者か」 「何のために生きるのか」 「何を愛し、何を守りたいのか」 「未来をどう生きたいのか」

完全な答えがなくても、問い続けること。 答えが見つからなくても、問いを手放さないこと。

その営みこそが、人間を人間にする。

ゾンビは問わない。 ゾンビは反応するだけだ。 命じられるままに動き、 本能的な引力に従い、 「なぜ」を持たない。

だから逆に言えば、 問い続ける限り、人間はゾンビにならない。

どれほど貧しくても。 どれほど苦しくても。 どれほど全てを奪われても。

問いを持つ人間は、ゾンビではない。


10.文明とは何か――最後の問いとして

この記事の最初で、こう問いかけた。

ゾンビとは何か。

その問いを辿ってきた。

奴隷制度。 砂糖。 三角貿易。 ブードゥー教。 産業革命。 フィッシュ&チップス。 教会の衰退。 黒人教会のゴスペル。 アンチャーチゾーン。 ロメロ映画。 消費社会。 注意経済。 スマートフォン。

一見バラバラに見えるこれらは、 実は一本の糸で繋がっていた。

その糸の名前は「人間とは何か」という問いだ。

文明とは何か、と問われれば、 こう答えたい。

文明とは、高いビルではない。 蒸気機関でも、スマートフォンでも、GDPの数字でもない。

文明とは、 人間が「人間とは何か」を問い続けてきた営みの、 積み重ねだ。

その問いが豊かな時代に文明は花開き、 その問いが失われる時代に文明は腐っていく。

ゾンビが怖いのは、腐った死体だからではない。

ゾンビが怖いのは、 かつて人間だったものが、 問いを失った姿だからだ。

昨日まで隣にいた誰かが、 問いを失い、 魂の居場所を失い、 ただ動くだけの存在になった。

その姿が怖い。

そして、 明日の自分がそうなるかもしれない。

その恐怖が、 人類にゾンビを作り続けさせている。

怪物としてではなく、 鏡として。

ゾンビとは何か。

それは、人間が自分自身を見るために作り出した鏡だ。

その鏡の前に立ったとき、 映っているのは腐った死体ではない。

問いを持った、あなた自身だ。

それがこの旅の、最後の答えだ。


【完】


この記事は全四章で構成されています。 第一章:ゾンビの誕生――奴隷制度とブードゥー教が生んだ恐怖 第二章:産業革命が生んだ「文明化されたゾンビ」 第三章:魂の居場所を失った社会――教会と共同体の衰退 第四章:ゾンビとは何か――文明を映す鏡

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