一宮-4:「伊勢」、「伊賀」、「志摩」
伊勢国一宮 「椿大神社」
式内小社で旧社格は県社、現在は神社本庁の別表神社。御祭神は「猿田彦大神」、相殿で「瓊々杵尊」と「栲幡千々姫命」を祀る伊勢国一宮。
しかし、鈴鹿市一宮町の「都波岐神社」(社伝による創建は雄略3年、明治に合祀され現在は都波岐神社・奈加等神社)も「猿田彦大神」を御祭神とする一宮を称している。
社伝によれば、「垂仁天皇二十七年秋(西暦紀元前三年)、倭姫命の御神託により、この地に「道別大神の社」として社殿が奉斎された」そうだ。
また、社名の「椿」については「仁徳天皇の御代、御霊夢により『椿』の字をもって社名とされた」とあり、猿田彦大神を祀る全国二千余社の本宮として「地祇猿田彦大本宮」と尊称されているようだ(てっきり、内宮近くにある猿田彦神社が本宮だと思っていた…😅)。
しかし、国津神の「サルタヒコ」は天孫降臨の際に葦原中国まで案内するために駆けつけたとされるが、どこの国津神なのだろうか。案内が済んだ後は故郷である五十鈴川の川上に鎮まったらしいが、それならそれで遠く離れた鈴鹿市のお社に鎮座するのは良く分からない。
ところで、奥宮は背後に聳える標高906mの入道ヶ岳(登頂には2、3時間かかるようで断念)にあり、いくつも磐座があるので古くから神体山として自然信仰の対象だったのだろうが、倭姫命が巡行の途中で麓に立ち寄った際に奥宮で祭っていた産土神を麓に下ろしたのだろうか。倭姫命は巫女的な存在だとも言われるので、御神託を下したとする背景が分からない。倭姫命の巡行中に立ち寄ったとされる「元伊勢」が数々ある中で、「元伊勢」由緒を名乗らないのは潔いとも言える。
また、仁徳天皇の御代に「椿」を社名に用いたのであれば、それまでは別の社名だったと言うことだ。もっとも、倭姫命の時代においては社殿を建てたというより「神籬」のようなものを用意したのかも知れないし、お社が無ければ具体的な社名も無く、神体山を仰ぐ純粋な磐座信仰だったのか…🤔
と、無粋な話はさておき、境内は清々しく素晴らしかった。木漏れ日の中、長い参道をゆっくり歩いて拝殿に向かったが、久しぶりに神々しい空間に埋もれ、神社はこうあって欲しいと思った。




境内にある「別宮椿岸神社」
御祭神は「天之鈿女命」で、相殿に「太玉命」と「天之児屋根命」だが、「太玉命」は「忌部氏」の祖神で、「天之児屋根命」は「中臣氏」の祖神なので、後々の忌部氏と中臣氏の関係を考えると一緒に祭って仲違いしないのか、と勘繰ってしまう。しかし、そもそも「天岩戸」の前で「天之鈿女」と共に岩戸開きに関わった仲間だとすれば、これで良いのか…😅


参道の途中に「高山土公神陵」と「御船磐座」
「猿田彦大神」の御陵だとされる「高山土公神陵」は前方後円墳らしいが発掘調査はされていないようだ。「土公」とは聴き慣れない言葉だが、「陰陽道」で「土の神」らしい。しかし、「猿田彦大神」が「土の神」と言うことは、この辺の産土神だったのだろうか。
また、御陵の側に「御船磐座」があるが、この地に天孫瓊々杵尊一行の御船が到着されたと伝承されてきた場所だそうで禁足地となっている。ここから「サルタヒコ」が高千穂へ案内したということだが、高千穂に降臨する前に何だってまたここに…🤔、と頭が混乱する。


見えづらいが猿田彦大神の左が瓊々杵尊、
右が栲幡千々姫命とされる三つの降臨石がある(25/5/15)

椿大神社と入道ヶ岳の岩石信仰
何だかスッキリしないのであれこれ調べていたら、下記記事が非常に参考になった(HPでは全国の磐座が網羅されていて読み応えがあります)。
猿田彦命と言えば、伊勢市の「猿田彦神社」
内宮近くにあり、式内社ではなく旧社格は無格社で神社本庁の別表神社。御祭神は「猿田彦大神」とその子孫の「太田命」だそうだ。
「倭姫命世記」によれば、「猿田彦」の子孫とされる「大田命」が倭姫命に五十鈴川川上の地を献上した、ようだ。子孫は神宮に玉串大内人として代々奉職した「宇治土公(うじのつちぎみ)」で、邸宅内の「屋敷神」として祖神の「猿田彦」を祀っていたが、明治時代に神官世襲が廃止されたことで、改めて神社としたのが「猿田彦神社」だそうだ。となると「太田命」一族の「祖先神」なので、「椿大神社」とは性格が違うようだ。


もう一つ、二見浦の「二見輿玉神社」
伊勢市二見町にあり、旧社格は村社で神社本庁の別表神社。御祭神は「輿玉神(猿田彦大神)」と「宇迦乃御魂大神」だが、御多分に洩れず明治43年に「輿玉社」に「宇迦乃御魂大神」を祀る「三宮神社」を合祀したそうだ。
社殿は近代的すぎて写真は撮らなかったが、(海に沈んだ)御神体の「興玉神石」を拝むための鳥居「夫婦岩」は昔ながらの姿だった。これこそ磐座を拝む自然信仰の一つの形なのだろう。

その向こうに「興玉神石」が沈んでいるそうだ(22/4/23)

伊賀国一宮 「敢国神社」
伊賀市にある式内大社で旧社格は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。御祭神は「大彦命」、相殿で「少彦名命」と「金山比咩命」を祀る。
社伝では658年に「大彦命」と「少彦名命」の二神で創建されたとされる。また、崇神天皇の御代に四道将軍として北陸・東海に派遣された「大彦命」の一族が伊賀国の「阿拝」を中心に移住したことで「阿拝氏」を名乗り、後に「敢」・「阿閉」・「阿部」・「安倍」と呼ばれるようになったそうだ。なお、「あえ」とは「あべ」の原音であり、「あべ」姓の総祖神でもあると共に伊賀の住民の祖神でもあるようだ。
社伝によれば、相殿の「少彦名命」は古代から伊賀地方に住んでいた「秦」族が、背後にある「南宮山」山頂付近に祀っていたものを神社創建時に現在地に遷座したそうだ(延喜式神名帳では1座とされているようで、元々は「敢の国津神」が本来の祭神だったのだろう)。
「金山比咩命」については、「少彦名命」を遷座した跡地に美濃国一宮「南宮大社」の御祭神である「金山比咩命」を勧請して977年に本殿に遷座したとあるが、この辺りに鉱山でもあったのだろうか。また、二神一体の対偶神とは言え、なぜ「金山彦命」ではなく「金山比咩命」なのだろうか。そこを除けば珍しく由緒がスッキリしているのは、創建が7世紀と比較的新しいからなのかも知れない。



志摩国一宮 「伊雑宮」
志摩市にある式内大社(論社)で内宮別宮の一社。御祭神は「天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)」で、「瀧原宮」と共に「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれるそうで、10社ある内宮別宮の中で「荒祭宮」「月讀宮」「瀧原宮」に次ぐ順位とされる。
但し、鳥羽市の「伊射波神社」(式内大社/論社で旧社格は無格社、御祭神は「稚日女尊」「伊佐波登美命」「玉柱屋姫命」「狭依姫命」)を一宮とする異論もあるようだ。
皇大神宮の説明によれば、「皇大神宮ご鎮座の後、倭姫命が御贄地を定めるため志摩国をご巡行された後、『伊佐波登美命』がこの地に神殿を創建し天照大御神の御魂をお祀りした」とされるが、「伊佐波登美命」は出雲系の「富」一族と関係があるのだろうかと気になった。
また、神社の近くの千田寺跡に「伊佐波登美命鎮座地」があり訪ねたが、これはどうなんだろ…🤔(倭姫命の遺跡とやらもあったが…)。



