卒業|あらすじ
夕暮れの美術室にはいつも油絵の匂いが満ちて
いた。
リンシードとテレピンの匂い。
1985年、高校の美術教師に恋をした生徒・詩乃。
突然退職した美術教師を忘れられないまま、面影を追う日々が続いた。
美術教師の秘密を知り、悩みながらも大人への一歩を踏み出す、恋愛小説。
卒業|第1話
彼の現在を私は知らない。
私は高校の美術教師に恋をしていた。
先生がいなくなってから、もう一年が経つ。
それでも私は
美術室のドアを開けてしまう。
先生がまた前のようにふっと笑って、
現れる気がして。
――そんなはずないのに。
放課後の美術室には油絵の匂いが満ちていた。
リンシードの甘い匂いと、
テレピン油の少しつんとした匂い。
窓から差し込む西日の中で
それは
ゆっくりと漂っていた。
「詩乃、また来てるの?」
背後から声がして、私は振りかえる。
「うん。ちょっとだけ」
「好きだねぇ。美術室」
友達のマリが笑う。
私は曖昧に笑って
キャンバスに視線を戻した。
……違う。
美術室が好きなんじゃない。
ここには先生の思い出がいっぱいあるから。
「それ、ホルベイン?」
低い声がして、心臓が跳ねる。
振り向かなくてもわかる。
「はい……」
嬉しいけど戸惑ってしまう。
「いい色やな」
関西弁が柔らかく耳に落ちる。
三上先生は私のすぐ後ろに立っていた。
26歳。
どこか大人で。
でも、ふとした時に少年みたいに
笑う人だった。
「先生、これ、どう思いますか?」
私は筆を持ったまま、少し体をずらす。
「んーー」
先生はキャンバスをのぞき込んで
少しだけ考える。
距離が近い。
私の胸の鼓動、先生に気づかれたかな。
「もう少し光、入れてみ?」
そう言って私の手から筆をとる。
「ここ」
スッと一筆。
たったそれだけで
絵が変わる。
「……すごい」
思わず、呟くと先生は少しだけ笑った。
「絵はウソつかへんから」
その言葉の意味を私は知らなかった。
「……詩乃」
不意に名前を呼ばれて顔をあげた。
優しくてよくとおる私の好きな声。
「卒業式の日」
先生はいつもより真面目な顔をしていた。
「ひとつ、約束してええ?」
「……はい」
「苺の花と蜜蜂の絵、描くわ」
「えっ?」
「それ、詩乃にやる」
あの時、三上先生は
その約束を果たさないまま、
突然、いなくなった。
理由も告げずに
絵も残さずに。
いつか、他の子たちみたいに
先生を忘れられると思っていた。
時間が経てばきっと。
それでも今の私は、
先生の事が忘れられずにいる。
夕暮れの美術室には、
あの日の匂いが残っている。
