下関発! ケコム工法という世界一の土木技術を開発した地場ゼネコンが、長きにわたる経営難を乗り越えて、今や新卒採用のPVランキング1位を獲得する「まちづくり会社」になるまでに何があったのか? 次期社長の半生を通して見えてくる、建設業の可能性を信じる三世代の父子物語
コプロスって? 宮﨑隆司って?
私、宮﨑隆司は、山口県下関市の長府に拠点を構えるコプロスという総合建設業を営む会社で専務取締役と、有限会社清水組、来馬建設有限会社の代表取締役を兼任しています。
コプロスは1946年に下関で二宮組という会社でスタートし、私の祖父宮﨑衛が前身である(株)共栄土建に社名変更し、現在は父の宮﨑薫がコプロスに社名変更して代表取締役社長を務めています。
1982年に祖父が開発した「ケコム」という立杭構築工事における独自の工法は、これまで数々の賞を受賞し、「世界一の技術」と称されるまでの評価を得ています。
ケコム工法は現在も大手ゼネコン様はじめ全国で発注をいただいており、コプロスの顔というべき存在です。
私が入社した2013年、コプロスは経営状況として、いわゆる冬の時代の末期でした。
しかし、厳しい時期を乗り越え、今ではありがたいことに新卒採用におけるマイナビのPVランキングで中国エリア1位を獲得するなど、若い人材との出会いを積極的に求め、迎え入れています。
現在、120名以上の社員とともに土木、建築、ケコム、バイオマスなど多角的に事業を展開しながら業績を伸ばし、私自身も様々な角度からコプロスの発展と進化を見据え、仕事に取り組んでいる日々です。
このnoteでは、私の少年時代から横浜での会社員時代を経て、2013年にコプロスに入社するまで、そして、今、コプロスの専務取締役や子会社の社長として描いている未来についてお話したいと思います。
私はコプロスの現社長の長男として、1984年に下関で生まれました。
下には妹が3人います。長妹は薬剤師。三妹は雑誌の編集者。次妹はプロのトレイルランナーです。
遺伝だと思うのですが私も健脚で、小学5年生から大学の途中まで陸上に励み、中高の陸上部ではキャプテンも経験しました。
高校時代は800mにおいて中国地方で7位の結果を残したこともあります。振り返れば、高校時代は部活をするために学校に行くような感じでしたね(笑)。
ちなみに父は私に野球をやらせたかったようですが、5歳くらいの私にソフトボールを使ったキャッチボールを本気で投げてくるようなお父さんだったので球技は苦手です(笑)。
子ども時代の私は、恥ずかしがり屋だったと記憶しています。
それも父の影響があって。
今もなのですが・・・、昔の父は大勢の人がいる場で積極的に笑いを取るようなタイプの人だったんです。
それが幼心に恥ずかしかった(笑)。あぁは、なりたくないと(笑)
小学生のときは下関の山の麓に住んでいて、友だちと廃材を拾って、秘密基地を作ったりして遊んでいました。
祖父はずっとコプロス本社ビルの上に住んでいたので、会社にもよく遊びに行っていました。
思い出すのは、会社近くにある忌宮神社と隣接している商店街で毎年7月から開催される土曜夜市、通称「ドヨヨイチ」。
最終日はコプロスも祖父の代からずっと支援している地元で1800年続く『数方庭祭(すほうていさい)』というお祭りと合同開催となり、商店街から境内まで出店がズラーッと並んで人でごった返していました。
当時はそれくらい街にも商店街に活気があったんです。
あの地元の活気と熱気を、これから取り戻していきたいと私は考えています。
東京に行ったほうが楽しいぞ
祖父や父からは一度も「いつかコプロスを継いでほしい」といったことを言われた記憶はないです。
でも、子どものころから祖父がケコム工法で様々な賞を受賞していたり、父が仕事をしている姿やお祭りを仕切っている背中を見ながら、楽しそうだな、地元に貢献してがんばっているんだなと誇らしく感じていました。
なので、自然と私も小さいころから大人になったらコプロスで働くんだと思うようになりました。
周りの同級生は「警察官になりたい」とか、Jリーグ発足初期の時代だったので「Jリーガーになりたい」と言っているなか私は幼稚園で将来の夢を書くときも、「お父さんと同じ大工になりたい」と書いていたくらいで。(当時は父の仕事を大工だと勘違いしていました(笑)。)
先ほどお話したように、引っ込み思案な子ども時代ではあったけれど、いつか祖父や父のような仕事をするなら、人前に出られるようにならなきゃいけないという意識がありました。
中学生のときは人前に出る機会を経験したい一心で生徒会選挙に出てみんなの前で演説したりして自分で自分を鍛えてましたね(笑)。
勉強もわりとできるほうで、高校は下関では優秀とされる県立高校に入学。
地元に愛着はあるけれど、東京に対する憧れもありました。
父も東京の大学を出ているので、実際に「東京に行ったほうが楽しいぞ」と言われていましたし、テレビなどで見る東京の華やかさや流行に触れてみたいと思ったんですね。
あとはずっと陸上をやっていたことに加え、宮﨑家は昔からお正月は祖父の家に集まってみんなでニューイヤー駅伝と箱根駅伝の中継を観るのが恒例だったんです。
父はずっと早稲田大学に行きたかったけれど、それが叶わず別の東京の私大に行った人で。
それもあって我が家は箱根駅伝ではずっと早稲田を応援していたんです。
そうすると、私にも「いつか早稲田の競走部に入って箱根駅伝に出たい」という願望が生まれていったんですね。
実は別大学の競走部からは推薦の話が来たのですが、そこの競走部は駅伝が強くないので、箱根駅伝に出られないと思って断りました(笑)。
早稲田に負けたままで終われるか!
結果的に一浪の末、早稲田には合格できず、「都内にある」工業大学に進学しました。早稲田には入れなかったけれど「ここから憧れの東京生活が始まる!」と思ったら、キャンパスがあったのは埼玉で・・・。
その大学には私が大学3年都内のキャンパスに通えるのですが、それまでは埼玉キャンパスに通うのだと知ったのは上京後に住む部屋を探しに行く日でした(笑)。
大学では機械工学を学びました。
機械工学を専攻した理由もコプロスにあります。
短絡的な発想ではありますが、ケコムがコプロスを支えてきたのだから、あの機械をもっと進化させることができれば会社はさらに発展するだろうと考えたんです。
その一方で、これはあとから知るのですが、当時の会社の経営状況は最も深刻な時期を迎えていて。
心配させないためか、父はそのことを私に言わなかったんですね。
そんななか、私は大学でエンジンを開発する研究室に入ったのですが、いざ研究を進めていくと、機械工学は機械そのものを作ることを学ぶのではなく、メカニカルな機械構造・要素を学ぶ学問であることがようやくわかって・・・。
「これではケコムの機械は一人で作れないな」と理解したんです(笑)。
ちなみに大学でも陸上部に所属しました。
駅伝を目指すことはあきらめたけれど、当時はトラック競技で複数の大学記録を私が持っていました。
けれど、怪我をしたこともあり、陸上への情熱はどんどん下火になり、結局退部してしまいました。
もうひとつ付け加えると、実は進学した大学に通いながらこっそり早稲田大学を受験し続けていました。
そして、2年生のときに早稲田大学理工学部機械工学科に合格したんです。
どこかで早稲田に落ちたというコンプレックスを払拭したかったし、「負けたままで終われるか!」という意識があったんだと思います。
でも、「ここからまた4年間通い直すのか……」と思ったときに、大学院に進んで別のことを学んだほうがいいと吹っ切れたんです。
早稲田に合格したことは父にも報告しました。
でも父は絶対に「早稲田に行け!」と言うと思ったので、入学手続き期間が終了した春に伝えました。
父は「もったいないな」と言っていましたね(笑)。
5年で地元に戻りますが、死ぬ気で働きます
私が大学3年生のある日、父がなんも前触れもなく私の部屋を訪ねてきたことがあります。
「ちょっと話があるから」と。
話を聞くと、「会社の経営状況が芳しくない。なんとか大学卒業までの学費は用意したから、あとは自分でなんとかがんばってくれ」と告げられました。
でも、私は父の言葉をそこまで深刻に受け止めなかったんです。
それと同時に、就職するか大学院に行くかと考えたときに、将来的に自分が会社を立て直す力になるために、そして、コプロスの経営者としてケコムに代わるような新しい機械を生み出せる会社にしていくためにイチから経営を学ぼうと思い立ったんです。
そして、横浜国立大学の大学院に進学することになります。
当時、MBAの工学版と呼ばれていたMOT(Management of Technology=技術を活かした経営学)が流行っていて。
今は横浜国立大学でもそのコース自体がなくなってしまったのですが、当時MOTを学べた大学院は東京大学と東京工業大学と横浜国立大学くらいだったんですね。
その中でなぜ横浜国立大学を選んだかというと、私がお世話になった三井逸友教授が中小企業経営を専門にされていた方だったためです。
基本的にMBAやMOTってどうしても対象が大手になるんですね。
でも、私は大手でできることと、コプロスのような中小企業でできることは全然違うなと思ったので、中小企業経営学専門の三井先生に師事したんです。
大学院では、現役の社会人の方たちに囲まれながら、中小企業経営について様々なことを学びました。
社会人のみなさんが学ぶ本気度も大きな刺激になりましたね。
卒業後について三井先生からも「すぐに地元に戻るのはよくない。経営における判断力をつけるために外を見てきなさい」という助言もありましたし、お金のことをしっかり学びたいという考えもあり横浜銀行の子会社である浜銀総合研究所というシンクタンクに入社し、経営コンサルティング部に配属されました。
なぜ浜銀総合研究所に入ったかというと、まず中小企業の経営者の方々と仕事がしたかった。
浜銀総合研究所は横浜銀行系列の会社なので、神奈川県内の中小企業にサービス提供していて私にはうってつけだったんです。
自己本位な考えではありますが、25歳で入社し30歳で下関に戻りコプロスに入ろうと決めていたので、ここから5年間丸々営業ではなくコンサルティングに特化した仕事に従事できると思いました。
当時の部長が最終面接のときに「5年で地元に戻りますが、死ぬ気で働きます」と正直に伝えた私に対してこう言ってくれたんです。
「5年後、おまえが会社に必要だったら引き止めるけど、どうでもいい存在だったら地元に戻る前に辞めざるを得ないんじゃない?」と。
そこで私は「5年後に引き止められつつ辞めてやる」とさらに奮起することができました。
実際に仕事は厳しかったです。
仕事を教えてくれた先輩も姿勢や成果物に甘えがあったら許さない人で。
よく言われたのは「お客様に対して真摯に向き合いなさい」ということと、「視座は高く、視野は広く、視点は鋭く」ということ。
浜銀総合研究所でも今の仕事に通じる様々なことを学ばせていただきました。
密かに自信を持っているPowerPointのスキルも浜銀総合研究所時代に『厳しく』鍛えられたものです(笑)。
そして、5年後。
退社の意志を告げた際、部長に引き止めてもらえた事が今でも心の大きな支えとなっています──。
覚悟を持ってやるんやな?
ついに30歳を間近に控え、父に「下関に戻ってコプロスに入る」と伝えました。
でも、父に反対されたんです。
「会社がいつどうなるかわからないから、戻ってこなくていいよ」と。
最終的にはそれを押し切る形で浜銀総合研究所を辞めました。
父には「覚悟を持ってやるんやな?」とだけ言われました。
そして、2013年。
私は下関に戻り、コプロスに入社します。
私が入社したタイミングは会社の暗黒時代末期でした。
社内の雰囲気がとにかく重かった。
従業員がみんな始業の午前8時ギリギリまで会社に入ってこないんです。
なぜかというと、厳しい上司と顔を合わせたくないから。
そして、お昼休みになるとみんな車の中でご飯を食べるんです(苦笑)。
そこから社長が自ら意識改革したことや若い人材を積極的に採用していったことで、会社の業績とムードは少しずつ改善され上向いていきました。
当時、池井戸潤さんの小説をNHKがドラマ化した『鉄の骨』という中堅ゼネコンがバブル崩壊をどう乗り越えていくかを描いた作品があるのですが、決して泣くようなドラマでは無いその作品を観ながら父が泣いていたのを今でも憶えてます。
私自身、実質的な創業者の孫であり社長の息子という立場もあり、入社当初は気負いもあったんです。
でも、社員はどん底から這い上がっていこうとみんな必死だったので私の境遇なんて気にする余裕もなかったんだと思います。
あとは、もしかしたら「社長の息子が入社するくらいなら、この会社はまだ大丈夫だろう」と思った社員もいたかもしれないですね(笑)。
コプロスに入って一番感じたのは──いや、今でも強く感じていることは「人を動かすのはこれだけ大変なんだ」ということ。
前職で経験したコンサル業は会社の支援はするけれど、実際に人を動かすのはその会社の社長であり、動くのは社員のみんななので。
いくら外部からやってきたコンサル担当が説明したって、社長が納得する説明ができなければ社員は動かない。
仕事って結局ひとりじゃできないですよね。
だから、私はいかに人を巻き込んでいくかを常に考えています。
そして、人を集めてプロジェクトを動かすうえで、私自身は専門家になる必要はない。
それが私の考え方です。
仮に私が数年間、土木や建築の現場に出てもその道で何十年やっている社員には到底及ばない。
だからこそ、彼らのスキルを最大限にリスペクトするし、私がやるべきことは彼らが気持ちよく働ける環境や仕組みを作ることに尽力することなんです。
私がコプロスに入る前から、もしかしたらつぶれていたかもしれない会社を支えてくれ、厳しい時代を一緒に乗り越えてくれたメンバーは今も大切な仲間たちですし、リスペクトしています。
私より先に入社している社員にはたとえ年下でも敬意を持って「さん」づけで接しています。
下関も、コプロスも、宮﨑隆司も未来へ!
今、新卒採用でコプロスに入社してくれる子たちのほとんどが地元出身者ではないんですね。
先ほど話に出た数方庭祭というのは毎年8月7日から8月13日の1週間あり、その期間中は私も毎日出店に参加するのですが、そういった地元のイベントに参加することを若い社員は嫌がるかなと思っていたんです。
でも、意外と学園祭のように楽しんで地域の方々と触れ合っている。
そんな姿を見て、彼らが下関の長府という土地を第二のふるさとのように思ってくれるようになってきているのかな、と感じるんです。
もしそうであれば、私の幼少期と比べて商店街もすっかり寂れてしまったけれど、若い社員が仕事を通してこの街が活性化していくことを体感できれば、もっと仕事が面白くなるんじゃないかと思います。
だからこそ、私はコプロスをこれまで以上に下関のまちづくりに貢献できる会社にしたい。
建設業って、広い意味では「まちづくり会社」だと思うんです。
これまでは基本的に公共事業で定められたものをつくってきたけれど、これからは自分たちの技術力を持ってまちをプロデュースしていく側に回っていく機会を増やしたい。
そうすることで社員みんなが主体的に働ける場面が増えていくと思います。
今、せっかく若い人材がどんどん入ってきているのだから、私たちもどんどん新しいことを始めて彼らが輝けるポジションを作っていかないといけないと考えています。
あと、シンプルに私が飽きっぽい性格なので(笑)、プロジェクトを立ち上げて順調に動き始めたらそれをどんどん人に譲って、また別の新しいことに着手したい。
そうすることで組織も地域も活性化すると思います。
そういう意味でも大規模の事業だけではなく、小規模・中規模の事業もしっかり大切に育んでいきたいです。
今、新たにスタートさせている事業の1つは人材系の事業です。
近年、コプロスの新卒採用には1000人くらいエントリーがあるのですが、田舎の建設業でこれだけ新卒採用ができている企業はなかなかないので「どうやってるの?」と訊かれることも多いんですね。
それもあって採用コンサルティング事業に取り組むことで地元企業に若い人材を紹介できるのではないかと。
私は思うんです。
まちづくりにおいて、地元住民が楽しめる場所は、きっと観光客にも魅力的に映るはずだ、と。
次期社長として、そういう視点を大事にしながら、若い人材が活躍できる総合建設業としてのコプロスの可能性を広げていきたいです。
子どもですか?
3人いまして、私の兄妹構成とは逆で、女、女、男の3姉弟です。
小2の息子にはいつかコプロスを継いでほしいという気持ちは正直、あります。
けれど、言葉に出さないように気をつけています(笑)。
私の祖父や父がそうであったように、今は仕事を楽しんでいる姿を見せられたらそれでいいかなと。
いろんな現場に連れて行ったり、重機に乗せてあげたり、私の子どもだからできる経験をさせてあげたいと思いますが、
将来、息子が違う仕事に就きたいと思ったら、
それは私のプレゼン力が足りなかったということですね(笑)。
