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「役に立つ」ことについて

※Disclaimer: この春、会社を辞めて研究寄りになりつつもそもそも研究テーマ自体が比較的「社会実装」寄りのことをやってる、でも研究がしたくてこの生き方をしてる、そんなわたくしが、ここ数日一部を騒がせる「人社系のダウンサイジング」という文言を見て、頭をよぎったよしなしごとを書き付けたものです。写真はこないだ新長田で撮った鉄人28号です。♪グリコ、グリコ、グーリーコー 

仕事に対する私の矜恃

契約のかたちや、踏むべき手続きの順番、うまくいかなかったときに誰がどの責任を引き受けるのかという組織の設計を、関係者と一緒に考える。実学の看板を背負って、法や倫理をめぐる面倒な設計は守りのためのコストではなく事業の強みになるのだと言い続ける。大学で生まれた技術が事業になっていく過程に、微かなりとも立ちあう。これまで十数年間そういう仕事で日々の糧を得ていて、そこには自分でもそれなりの矜恃があります。

私の矜恃はどこから来ているのか

基本的には実務の側にいる人間として毎回思うのは、技術が世に出ていく最後の局面で残っているのは、たいてい技術の性能の問題ではないということです。誰に、どういう説明をして同意をもらうのか。専門家の言っていることを、誰が誰の言葉に翻訳するのか。取り決めたことが守られなかったときに、責任をどこに置いておくのか。人のデータを預かって使わせてもらう仕組みなどは特にそうで、同意の取り方を一段ていねいに組み直すか、通知だけで済ませるかという設計上の差が、その仕組みが受け入れられるかどうかの土台になり得ます。

振り返ると、私がやってきた仕事は、リサーチや戦略の絵を描くことに加え、複数の人が関わるプロジェクトを回すことでもありました。そこで自分がまあまあ得意だったのは、中身を作ることと同じくらい、誰にどの順番で何を出すかを決めることでした。とくに心がけていたのは、多くを語らないけれど場のキーになっている人が動きやすくなるように整えることでした。その人が黙ったまま会議が終わると、決まったことがあとで動かなくなります。だから議題の順番を入れ替え、その人が答えやすい問いの形に言葉を選び直しておく。それだけで前に進む場面を何度も見てきました。

私が現場でいちばん誇らしくなるのは、こういう局面で言葉が効いたときです。そしてその効いた言葉は、私が思いついたものではありません。法学や倫理学や社会学、組織の研究が何十年もかけて積み上げてきた蓄積から、そのつど借りてきたものばかりです。

つまり私の矜恃は、私が有能だから成立しているのではなく、借りられる蓄積がそこにあったから成立しています。この順序を忘れると、たちの悪い人間になる気がします。役に立っているのは私そのものであるような顔をするのや、借りているものがなかったように振る舞うのが嫌いだからこそ、細々とでも研究を続けてきたのだとも改めて感じる昨今です。

「役に立つ」は、使われてからしか決まらない

役に立った、と言えるのは借りたあとです。借りるためには、借りるより前にそこに厚い素材が積まれている必要があって、しかもその蓄積は、必要になってから慌てて作ることができません。

知識には「効きどき」があって、そしてそれは人間の寿命より遅いタイミングで訪れることだってあります。哲学や史学がいちばん効くのは、おそらく社会が次に大きな判断を間違えかけたときで、そのときにはもう、人を育てるほうは間に合いません。私が現場で借りている言葉も、誰かが数十年前にその当時すぐに役に立つかどうかとは別の理由で積んでくれたものが含まれています。私が実務で発揮できる矜恃は、その「遅さ」の上に乗っています。

文理融合は両方の蓄積が厚いところでしか起きない

技術の側に相手の言葉がわかる人がいなければ、その技術は社会に出る前に止まります。人文社会の側に技術の中身がわかる人がいなければ、出たあとで止まります。どちらか一方を厚くすれば済むという話ではなく、両方要る、という面倒な話です。そして私の知る限り、越境してその両方をつないでいる人はたいてい、器用な二刀流としてそうなったのではなく、まず自分の側の訓練を十分に受けたあとで「向こう側」へ手を伸ばしています。もちろん、どれだけあれば十分な厚みなのかを私は数字で示せません。ただ、蓄積のほうを薄くしながらそこを渡っていける人だけは増えてほしいと願うのは、順序が逆なのではないかと思うのです。

矜恃は、盾にした瞬間に腐る

ここまで読んでくださった方は、要するに役に立つ仕事を誇りたいのか、それを疑いたいのか、どちらなのだと思われるかもしれません。正直なところ、両方です。この誇りは手放したくないし、その誇りを誰かを測る物差しには使いたくない。この二つは、片づけずに並べて置いておくしかないものだと思っています。

というのも、私はいま、いちばん簡単な逃げ道を持っています。自分のやっていることは現場で実際に使われているのだ、と申告してしまえば、たぶん私は、なぜ必要なのかを説明せずに済む側に置かれます。けれどそれを言った瞬間に、すぐに使われないものは要らないという論理そのものを私も承認して引き受けることになります。守ったつもりで、物差しのほうを差し出してしまう。矜恃を身分証のように誰かへ差し出した瞬間にそれは矜恃ではなく免罪符に変わるのだと思います。

かといって、この矜恃を捨てるつもりもありません。役に立たなくてよいのだ、と言ってしまうほうが、私にとってはよほど嘘になります。ですので自分への戒めとして書いておきたいのは、矜恃は持ったまま、それを免罪符としては使わない、ということです。座りはよくないのですが、たぶんこの座りの悪さのほうが私には正しいのだろうと思っています。

とはいえ、私にできるのは地味なことです。見えにくいまま誰かの手で回っている調整の仕事に名前と説明を与えて、記述として残していく。それは物差しを一つ増やすことに資するはずで、たぶん、役に立つ/立たないを言い合うよりこちらのほうが性に合っています。

だから私は、その名前のない仕事を書き記していきたいと思います。それがいつか誰かに対する「遅い」効果につながると信じられるが故に、今の生き方を選んだのだと思うので。

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