見出し画像

その勇気に愛を

幼き日の母が、産みの親への恋しさあまりに
ひとり歩き訪ねていた実母の実家。
8月15日を迎えて思い至ったことは、
そのころ戦時中だったという事実である。
のどかな島にも空襲があったというから、
慕情を胸に出かけていくのも命がけだ。

「おっかあは、いる?」
おかっぱ頭の女の子だった母。

「ごめんなぁ。あんたのおっかあは、ここにはいないんよ」
いつもの返事にしょぼんとなる。

この家には奇妙なことに檻があったという。
その薄暗い空間でギラギラと光る目。
母の実母の弟。
僕からすると大叔父にあたる。

大叔父のふたりの子どもは兵隊にとられた。
ふたりとも戦死の知らせが入り、
大叔父は「俺は馬鹿になった」と言って暴れに暴れ、
檻に入れられる羽目になったそうだ。

母には集団疎開の経験がある。
本土の疎開先は食べ物に乏しく、
栄養失調に陥る同級生がたくさんいたと話してくれた。

母は皆に遅れて、
疎開から戻って来た後に栄養失調になったという。
頭からつま先まで赤いおできがびっしりとできて、
母は学校でとことんいじめられて帰って来た。

そのおできを養父がかみそりでとってくれようとするのだが、
それが痛くてたまらなくて泣き叫んだわ、と母。
平和な島の子どもの皮膚にまで食い込む戦争の跡。

終戦の時、父は14歳だった。
あと1年早く生まれていれば、
少年特攻隊として命を落としていた可能性もある。

生きている間、戦争のことは何も語らなかったが、
一度だけ、思いが垣間見えた瞬間がある。

京都で祇園祭を見た帰り。
中学一年生だった僕は、
そのころ京都で働いていた父と一緒に
駅のホームで電車を待っていた。

東京では見慣れない色の電車がやってくる。
ホームに止まる寸前、僕らの近くに立っていたおばさんが
電車の開いている窓に向かって自分の荷物を投げ入れた。

それを見て瞬間湯沸かし器と化す父。
「あんたね、戦時中じゃないんだから
そんなみっともないことするんじゃないよ」
おばさんを叱り飛ばす。

僕は「またか」と恥ずかしくなった。
コンビニの前でたむろする若者に
「みんなの邪魔になるからどきなさい」と注意するなど、
一見そうは見えないのだが、父は世話焼きの雷親父タイプだった。
おばさんは僕よりもっとバツが悪そうな顔をしていた記憶がある。

父の口から戦時にまつわる言葉を聞いたのは、
それが最初で最後だった。

今、思う。
僕は、生前の父に戦争体験を聞かなかったことを後悔していたが、
父は戦時中のことなど思い出したくもなかったのではないか。
あの時代そのものを忌々しく思っていたのかもしれないし、
よほどのことが当時あったのかもしれない。
おばさんはそんな父の地雷を踏んだ。

人は自分の一生を設計して生まれてくる、とたびたび聞いてきた。
置かれた環境、起きる出来事。
人生はすべて望んだとおりなのだ、と。

この話を聞くたびに僕は猛烈に反発した。
こんな自分、こんな人生を望んだはずがない。
僕の人生を知っても同じことが言えるのか。
この世のあらゆる不幸に苦しむ人にもそう言えるのか、と。

ところが、自分を大事にすることに目覚めて、
愛をもって心の中と向き合っていくうちに、
僕はこの人生を選んで生まれてきたのだと、
そうとしか思えなくなってくるから不思議である。

コンプレックスがシャボン玉に包まれた瞬間、
肯定感に変わって空に昇っていくような。
親心のようにピュアであたたかい、
源の愛の光を心で感じるほどに。

この人生を選んだ自分が
どんどん誇らしく、愛おしくなっていく。
ありのままに身を委ねる勇気が生まれ、
自分を縛る執着がだんだん剝がれ出した。
受けたいじめも、投げかけられた意地悪な視線も、不幸だった日々も。
傷ついた自分をも素直に受け入れる日が、
反発していた僕にもやってきたのである。

苦しみに晒された人は皆、
勇敢な魂の持ち主ではないかと感じている。

戦時中、むごいほどの絶望を体験した大叔父も、母も父も。
比較にならないが、僕も。
あえて苦しみを設計してそこに飛び込んで生きたのなら、
その勇気にありったけの愛を贈りたい。

いいなと思ったら応援しよう!