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ゲームにフルボイスは要るか。

身近に「ゲームのセリフは全部ボイス付きじゃないと無理」という人がいる。テキストだけの会話シーンは味気なく、声がないと没入できないらしい。そこまで言い切れるものなのか、と少し驚いた。

自分はというと、ボイスがあること自体を否定したいわけではない。むしろ、声がつくことによってキャラクターの感情のニュアンスが明確になり、印象が強くなる場面は確かにある。名演技に心を動かされた経験もある。問題は「豪華さ」ではなく、それによってゲーム体験の性質が変わってしまう点にある。

まず、テキストのみの会話は、解釈の余白が大きい。声の高さ、間の取り方、怒りや悲しみの強度は、読み手の中で自然に補完される。ある意味で、プレイヤー自身が演出の一部を担っている状態だ。長年ボイスなしで展開してきたRPG、たとえばドラクエのような作品は、この余白を前提とした設計だったと言える。

フルボイスになると、その余白は埋められる。声優の演技によって感情は具体化され、キャラの輪郭ははっきりする。それは解像度が上がるということでもあるが、同時に解釈の幅が狭まることでもある。脳内で自由に思い描いていた声が、公式の声に置き換わる。そこに違和感を覚える人がいても不思議ではない。

もうひとつ大きいのがテンポの問題だ。

テキスト中心のRPGは、読む速度がそのままゲームの速度になる。プレイヤーが読み終えた瞬間にボタンを押せば、次の行に進める。主導権は常にプレイヤー側にある。

フルボイスになると、セリフには「長さ」が発生する。スキップ機能があっても、読み終わった瞬間に即座に飛ばせるかというと、どうしても躊躇してしまう。キャラクターがまだ喋っている最中に切るのは、どこか落ち着かない。演技を途中で遮ることへの小さな罪悪感のようなものがある。

その結果、没入感を高めるはずのボイスが、逆にテンポの主導権を奪う装置になることもある。物語を自分のリズムで読む体験と、演技を含めて受け取る体験は、似ているようで少し違う。

ここで気づくのは、フルボイス化は単なる演出強化ではなく、体験の方向性を変える要素だということだ。

ボイス中心の作品は、体験がアニメや映画に近づく。画面の向こうで展開されるドラマを「観る」感覚が強くなる。一方、テキスト中心の作品は、小説を読む感覚に近い。物語を自分の速度で咀嚼する余地がある。

どちらが優れているという話ではない。ただ、求めている体験が違う。

フルボイスでなければ耐えられないという感覚も理解できる。現代のゲームは映像も音声も含めて完成形と捉える人が多い。ボイスがないと未完成に感じる、という価値観が生まれるのも自然だろう。

しかし、ボイスがあることによって失われるものも確実に存在する。自由な解釈の余地や、読む速度の主導権といった、静かな部分だ。

「フルボイスは要るか」という問いは、実際には「どんな体験を求めるか」という問いに近いのかもしれない。

物語を観たいのか。
物語を読みたいのか。

豪華になった、という単純な話ではなく、別のものに変わった可能性がある。その変化をどう受け取るかで、答えは自然と分かれていく。

フルボイスは進化か。それとも変質か。

少なくとも、必須と断言できるものではない、というのが現時点での結論だ。





かいたひと→スタッフAとAIアシスタントくん

そこまで要るかなあ



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