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同じ愛知県、同じ平成の大合併 豊田市と一宮市はなぜこんなに違ったのか


実家の地図が、いつの間にか広がっていた

先日、実家のある愛知県一宮市の地図を眺めていて、あることに気づいた。
私が生まれ育った旧一宮市の西側に、以前は存在しなかったはずの区域が広がっている。
旧尾西市、旧木曽川町。2005年、平成の大合併でこの2市1町は一つの「一宮市」になった。

私は旧一宮市側、それも市の東側の人間で、正直なところ尾西や木曽川にはあまり縁がなかった。
合併から20年、同じ市民のはずなのに、どこか他人事のように地図を見ている自分がいた。

同じ時期、同じ愛知県内では、もう一つ大きな合併が起きていた。
豊田市が周辺6町村を編入し、県内最大の市域を持つ「新・豊田市」になったケースだ。

この2つの合併を並べて調べてみると、「平成の大合併」という同じ言葉でくくられていながら、その中身がまったく違う構造を持っていることが見えてきた。


ケース1:豊田市 ― 「必然」としての合併

2005年4月1日、豊田市は藤岡町・小原村・足助町・下山村・旭町・稲武町の6町村を編入合併した。
市域は918平方キロメートルと県内最大になり、合併直後の人口は42万人を超えた。

一見すると、これは分かりやすい構図に見える。
「世界のトヨタ」がある豊田市に、周辺の小規模自治体が救済を求めて吸収された、という構図だ。
実際、山間部の町村側には過疎化・人口流出・財政基盤の弱体化という切実な事情があった。
単独で将来を維持していくことへの不安も、合併を考える背景にあった。

しかし調べていくと、この合併には旧豊田市側にも明確な、後押しとなる要因があったことが分かる。
それは矢作川流域を一体として捉える必要性だった。

豊田市自身、合併の背景として少子高齢化や人口流出による地域活力の低下、森林の荒廃などを防ぎ、流域の豊かな暮らしを守る必要性を挙げている。
豊田加茂7市町村は矢作川の上・中流部に位置し、地域の森林面積は全体の68.8%を占める。
林業の衰退により森林の荒廃が進み、水源涵養機能や保水力の低下、それに伴う河川氾濫や濁水被害が懸念されていた。
2000年の東海豪雨の記憶も新しく、東海・東南海地震の発生も危惧される中、市町村合併によって広域化した市域で防災対策を充実させる必要性が、合併の目的として公式に明記されている。

もっとも、水源保全そのものは合併がなければできなかったわけではない。
豊田市は合併以前の1994年から、水道使用量1立方メートルあたり1円を「水道水源保全基金」として積み立て、矢作川上流域の森林保全に充ててきた実績がある。
つまり「水源保全のために合併した」というより、「矢作川流域を一体的に管理・発展させるという発想が、合併を後押しする重要な要素の一つだった」と捉える方が正確だろう。

合併により豊田市の森林面積は旧豊田市の6倍に拡大し、上流域の課題を自らの行政課題として引き受ける体制が整ったことは事実だ。

山間部の町村側が抱えていた人口減少・高齢化や財政基盤の弱さと、旧豊田市側の流域一体管理という発想。
この2つが同じ方向を向いていたことが、合併の後押しになったと考えられる。少なくとも記録を見る限り、一宮市の木曽川町のような住民投票を巡る大きな分裂が表面化した形跡はなく、その意味では比較的まとまりやすい合併だったと言えそうだ。


ケース2:一宮市 ― 「摩擦」としての合併

一方、一宮市・尾西市・木曽川町の合併は、まったく違う経過をたどった。

2004年2月、尾西市で行われた住民投票は、愛知県内で初めての市町村合併に関する住民投票だった。
結果は賛成17,167票、反対6,787票、賛成率にして71.67%という大差だった。
尾西市は毛織物・綿織物を中心とする繊維産業地区(尾州産地)で、産業構造の変化という課題も抱えていた。こうした背景も、合併をめぐる住民の判断に影響した一つの要因だったと考えられる。

ところが同じ年の7月、木曽川町で行われた住民投票はまったく違う結果になる。
賛成8,040票、反対7,622票。賛成率はわずか51.33%。418票差という、町を二分する僅差だった。

この数字以上に興味深いのが、投票に至るまでの経緯だ。
2004年3月、木曽川町議会では住民投票条例案がいったん否決されている。
しかしその後、地方自治法に基づく直接請求によって同様の条例案が改めて提出され、5月の臨時町議会で可決された。
つまり、行政や議会の判断だけでは収まらず、住民自身が「決めさせてほしい」と動いた末に実現した投票だったのだ。

では、木曽川町の「反対」は何を恐れていたのか。
合併後に開かれた木曽川地域審議会で、会長はこう振り返っている。木曽川町は教育・福祉が充実していたため、「今までどおり木曽川町はやっていけるのではないか」という理由で反対する住民が多かった、と。

これは重要な指摘だ。豊田市のケースのような「弱い自治体が強い自治体に救済される」という単純な構図ではない。
むしろ「今の自分たちの町の方がきちんとやっているのに、なぜわざわざ薄める必要があるのか」という、規模の経済とサービスの質をめぐる緊張が根底にあった、という感覚に近いものが議事録から読み取れる。

合併後も摩擦は残った。
木曽川中学校は合併後も旧木曽川町の学区を基本的に維持している。
2008年の地域審議会の議事録には、社会福祉協議会の会費が木曽川町時代の500円から一宮市の基準である300円に変わったことをめぐって、委員が強く疑問を呈するやり取りが記録されている。
大きな理念の合意とはまったく別のタイムスケールで、日常生活レベルの摩擦が長く尾を引いたことがうかがえる。

さらに象徴的なのが選挙区の話だ。
旧尾西市域は合併後も衆議院小選挙区が他の一宮市域と異なり、2005年の合併から2022年の区割り改定まで17年間、別の選挙区に置かれ続けた。
合併後も旧自治体単位の区割りが残ったという点では、豊田市に編入された旧稲武町のケース(2022年まで別の選挙区に残った)とも共通している。


構造比較:何が違いを生んだのか

こうして並べると、合併の進み方を分けた要因として、自治体の規模差や財政格差以上に、「何のために一緒になるのか」という関係性の質が重要だったのではないか、という仮説が浮かび上がる。
二つの事例だけから断定はできないが、次のように整理すると見通しが良くなる。
豊田市のケースは、異なる機能を持つ地域同士の補完関係だったと言える。
都市部が持つ産業・人口・財政と、山間部が持つ森林・水源・土地という、そもそも役割の異なる資源を一つの行政単位でまとめて管理する話であり、水源保全や防災という共通利益が土台にあった。
もちろん道路整備や公共交通、林業振興など、上流側にも上流側の個別利害はあり、対立が皆無だったわけではない。
ただ、少なくとも流域の環境保全という一点では、上流と下流の利害はねじれにくい構造にあった。
一宮市のケースは、性格の似た地域同士を一つの行政制度に統合する話だった。
旧一宮市・尾西市・木曽川町は隣接してはいたが、2005年の時点で住民の意識まで一体化していたとは限らない。
実際、合併から10年後の木曽川地域審議会でも「東西の交流が進んでいない」「旧一宮とか旧尾西、旧木曽川みたいな話が出る」という発言が残っている。
比較的似た都市的機能を持つ地域同士だからこそ、「どちらのサービス水準に合わせるのか」「どちらの地域文化を残すのか」という調整問題が前面に出やすかったのだろう。を残すのか」という調整問題が前面に出やすかったのだろう。


結び:境界線は簡単には消えない

一宮市の公式資料では、20年経った今も「旧一宮市」「旧尾西市」「旧木曽川町」という区分がごく普通に使われている。
行政区域としては一つになっても、地域社会としての「旧自治体」は簡単には消えない。

私自身、旧一宮市側の人間として、尾西や木曽川にあまり縁がないと感じてきた。
しかし今回調べてみて、その感覚自体が、合併という制度上の統合と、住民が実際に感じる地域の境界線とのズレを、身をもって体現していたのだと気づかされた。

平成の大合併から20年余り。
次の広域連携のあり方を考えるとき、この2つの事例が教えてくれるのは、「規模を大きくすること」自体に価値があるのではなく、一緒になる地域同士が異なる機能を補い合う関係なのか、似た機能を持つ地域同士としてサービス水準や地域文化のすり合わせを迫られる関係なのかによって、合併後の地域社会に残る摩擦や調整コストにも違いが生じるのではないか――というのが、二つの事例を並べてみて浮かんだ仮説だ。


【参考資料】

  • 豊田市「豊田市統計書 合併特集号」「とよたの記録」

  • 一宮市「一宮市・尾西市・木曽川町合併の記録」全7章

  • 総務省「住民投票の実施状況」

  • 各種Wikipedia項目(豊田市、尾西市、木曽川町、愛知県第10区)


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