べか船を掲げる前に —浦安のシンボルと、余所者たちの街
余所者が作ったシンボル
ブリオベッカ浦安というサッカークラブがある。
浦安べか焼きそばと呼ばれるご当地グルメも登場した。
浦安にゆかりのある店や団体が「べか」「べか船」という言葉をシンボリックに使う場面は、今も珍しくない。
べか船とは、かつて浦安の漁業を支えた一人乗りの小型木造船のことだ。
海苔や貝の採集に使われ、浦安の漁師たちにとって大切な商売道具だった。
子供が石を投げようものなら大人に叱られた、というほど大事にされていた船である。
しかしここで、一つ問いを立ててみたい。
「べか船」というシンボルの来歴を、それを掲げる人たちはどこまで知っているだろうか。
そしてその来歴を知った上で、肯定できているだろうか。
青べか物語が描いたもの
山本周五郎の『青べか物語』は、昭和35年(1960年)から翌年にかけて雑誌『文藝春秋』に連載された作品だ。
昭和初期の浦安(小説の中では「浦粕町」という仮名になっている)を舞台に、当時の漁師町の人々の暮らしをありありと描いている。
主人公は「蒸気河岸の先生」と呼ばれる若い書き手。周五郎自身の分身である。
東京から流れ着いた余所者として、先生は浦安の人々の生活を鋭い観察眼で記録していく。
楽天的でたくましく、時に狡猾で卑猥でさえある庶民の姿が、技巧を排した自然な文体で活写されている。
これは文学的に高い評価を受けた作品だ。
しかし「描かれた側」の浦安の人々にとって、この作品はどう映ったのか。
映画は4日で上映中止になった
昭和37年(1962年)、この小説は映画化された。
監督は川島雄三、脚本は新藤兼人、主演は森繁久彌という豪華な布陣で、浦安での現地ロケも1ヶ月半にわたって行われた。
浦安にあった浦安劇場でも上映が始まった。
しかし浦安市郷土資料館の資料パンフレット「周五郎が愛した『青べかの町』」は、こう記録している。
上映初日、二日目は客が入った。
三日目には十人ほどに減り、四日目にはとうとう客が入らなくなり、上映を中止した——と。
その要因として資料は「青べか物語が浦安に実在する人物、事件を題材にしていたからではないか」と指摘している。
地元からは「誇張しすぎている」「嘘が多い」といった批判の声も強かったという。
映画がまだ大衆娯楽の花形だった時代に、地元の劇場で4日で打ち切られた。
これは余程のことだ。
もっとも、映画の問題は原作の忠実な再現ではなかった点にもある。
脚本の新藤兼人は「変化球を多投した」と自ら語っており、原作よりさらに下品にカリカチュア化された描写が随所にあった。
浦安の人々が怒ったのは無理もない話だった。
べか船は、実は伝馬船だった
ここからが、この話の最も面白い部分である。
「青べか物語」というタイトルは、作品冒頭の「青べかを買う話」に由来している。
主人公の先生が、芳但という地元の狡猾な男から、青く塗られたオンボロのべか舟を買わされてしまう——その話だ。
ところが地元では長らく、こんな見方が通説になっている。
周五郎が実際に買ったのは、べか舟ではなく伝馬船だった、と。
浦安郷土資料館の展示によれば、船宿・吉野屋の末っ子でかすかに周五郎と遊んだ記憶を持つ証言者は、「周五郎が買った青べかは、べか舟ではなく下肥を運ぶ伝馬のような船だった」と語っている。
元舟大工の証言も同様だ。
「べかに石なんか投げたらしかられましたよ。べかは大事な商売道具ですから」「周五郎先生はそれのおんぼろをつかまされたんじゃないですか」と。
伝馬船とは農業用の船で、下肥や稲を運ぶために使われた。
形はべか舟に似ているが、用途も社会的な位置づけもまったく異なる。
「肥やしの匂いがしみついた」船だ。
つまり芳但は、余所者の先生に糞尿運びのオンボロ船をべか舟と偽って売りつけた。
周五郎自身も何かがおかしいと感じてはいた。
小説の中で「胴がふくれていてかたちが悪く、見るからに鈍重で不恰好だった」と書いている。
しかし伝馬船だとまでは見抜けなかった。
ここに、深い逆説がある。
「青べか物語」というタイトルも、「べか船」という浦安のシンボルも、その起源をたどれば余所者が地元民に騙されて掴まされたオンボロ伝馬船に行き着く。
余所者をうまくあしらった地元民の逞しさと狡猾さ——青べか物語が描こうとした浦安の本質——が、皮肉なことにシンボルの成立過程そのものに刻み込まれているのだ。
余所者が余所者を重ねてきた街
ここで、私自身のことを書かなければならない。
私は浦安に移り住んで20年以上になるが、生まれも育ちも浦安ではない。
山本周五郎と同じく、余所者として浦安にやってきた人間だ。
そして気づけば、浦安の中町・新町に暮らす住民の多くが、同じように余所者だ。
浦安の歴史を重ねると、「余所者」の流入は一度ではない。
昭和初期に周五郎が流れ着いた漁師町の浦安。
昭和30年代、漁業権の放棄と埋立事業の開始。
昭和50年代以降、中町・新町への大量入植。1983年のディズニーリゾート開業。
そのたびに浦安は姿を変え、そのたびに余所者が流れ込んできた。
元町の旧来住民を「本来の浦安」の継承者とするなら、中町・新町の住民の多くが入植者ということになる。
現在の浦安市民の大多数は、構造的に余所者なのだ。
では、余所者は浦安を語る資格がないのか。
そうは思わない。むしろ逆だ。
周五郎が余所者として浦安を描き、それを地元民が怒り、映画が4日で打ち切られ、それでも「べか船」という言葉だけが残った。
中町・新町に入植した余所者たちが30年・40年をかけて積み上げた生活が、現在の浦安の実質を作っている。
ディズニーリゾートという巨大な余所者が、浦安を世界に知らしめた。
浦安とは、余所者が余所者を重ねて作ってきた街だとも言えるのではないか。
そして「べか船」は最初から、余所者の誤認によって生まれたシンボルだった。
シンボルを肯定するとはどういうことか
以前、私はこの場所で「浦安鉄筋家族は現代版の青べか物語ではないか」という記事を書いた。
漁師町の浦安を描いた青べか物語と、住宅都市の浦安を描いた浦安鉄筋家族。
表現形式はまったく異なるが、どちらもその時代の「自然な語り口」で、浦安とそこに生きる人々を描いている。
そして青べか物語が余所者の視点で書かれたように、浦安鉄筋家族もまた、浦安という地名を外側から眺める視点を含んでいる。
重要なのは、浦安がそのどちらも否定しなかったことだ。
地元民が怒った映画の後も、べか船というシンボルは残った。
猥雑なギャグマンガの舞台になっても、浦安という地名は傷つかなかった。
変化のたびに流れ込む余所者を受け入れながら、街は続いてきた。
べか船を掲げることは、その来歴を全部引き受けることだと私は思う。
余所者に騙されて買われたオンボロ伝馬船。
余所者の文学によって描かれた漁師町の人々。
その描写に怒った地元民。
4日で打ち切られた映画。
それでも残ったシンボル。
きれいな部分だけを切り取ってシンボルにするのは簡単だ。
しかしそれは、本当の意味でそのシンボルを「自分のもの」にしたことにはならない。
余所者である私が、それでも浦安のことを書き続けるのも、同じ理由からだ。
来歴を知り、来歴ごと面白がる。
そこから始めてこそ、余所者も含めた「浦安市民のアイデンティティ」というものが、少しずつ形を持ち始めるのではないかと思っている。
この記事は、11年前に自分がTwitterに書いた問いを、今になってようやく言葉にしようとしたものです。
答えが出たとは思っていません。
ただ、問いの輪郭は少し、はっきりしてきた気がしています。
