息をするだけで満たされる場所があった
水に潜った瞬間、世界から音が消える。
聞こえるのは、自分の呼吸だけ。 レギュレーターを通る空気の音が、やけに大きく響く。

水面を見上げると、光がバラバラに砕けて降ってくる。
まぶしいのに、なぜか泣きそうになる。
地上ではいつも、何かに追われている気がするのに。 ここでは、誰も急かさない。
時間の流れ方さえ、違う気がした。

気泡が、光を受けてひとつずつ輝きながら昇っていく。
自分が吐いた息が、あんなに綺麗な形になるなんて知らなかった。
生きているというのは、こういうことなのかもしれない。 息をして、それが誰かの目に美しく映る瞬間があるということ。
魚の群れと並んで泳ぐ。 ただそれだけのことが、こんなに満たされるなんて。
浮かんでいるのか、沈んでいるのか。 わからなくなる瞬間がある。
たぶんそれは、自分がどこにも属していない証拠で。 だからこそ、自由だと思えた。

光の方へ、誰かが泳いでいく。
その後ろ姿を見ていたら、なぜか少しだけ、自分の人生と重ねてしまった。
先の見えない青の中を、それでも光を信じて進んでいく。 不安なはずなのに、あの後ろ姿は、どこか穏やかに見えた。
タンクの中の空気には、限りがある。 いつか、浮上しないといけない。
わかっているのに、もう少しだけ、このままでいたいと思ってしまう。
夏が特別なのは、気温のせいじゃなくて。 こういう時間があるからなんだと思う。
水の中では、何も持たなくていい。 肩書きも、予定も、悩みも。
ただ呼吸をして、光の方を見ていればよかった。
浮上して、水面に顔を出した瞬間。 音が戻ってくる。
現実に帰ってきたんだと、少しだけ寂しくなる。
それでも、この数十分の記憶は きっとこの夏、一番透明な思い出になる。
