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神さま妖怪さまは人間が作り出した創作ではない? 神さまの発生メカニズム考察(前編)

 近代的な思考は、精神文化が語り継いできた説話、ひいてはそこに登場する神仏や精霊、異界、英雄、怪物、妖怪などを「人間が作り出した表象」として説明し、その表現の主体性を人間の側に一方的に帰属させてきました。

 恐怖や不安を処理するための心理的防衛機制、自然現象を理解できなかった未開の人々による説明の試み、あるいは社会秩序を維持するための道徳的装置――神話や妖怪譚は、こうした人間側の必要性や都合から一方的に「作られたもの」として語られてきたのです。そこでは、神や妖怪はつねに人間という主体によって対象化され、操作され、意味づけられる客体にすぎません。世界の側は沈黙しており、物語を紡ぐのはつねに人間だけである、というわけです。

 たとえば、自然現象を理解できなかった古代人が雷や嵐を神格化したとか、死への恐怖を和らげるために死後の世界を考え出したとか、共同体の秩序を維持するために神話や宗教が利用された、といった説明です。心理学では心の働きとして、社会学では文化や制度として、民俗学では共同体の歴史として、それぞれ神や妖怪の成立が論じられてきました。

 もちろん、これらの説明には大きな説得力があります。人間の認知や文化が神話や宗教の形成に深く関わっていることは疑いようがありません。しかし、その一方で、この理解だけでは十分に説明できないものが残されているようにも思えます。

 なぜなら、神秘体験や怪異体験を語る人々の証言には、ある共通した特徴があるからです。体験者たちは、「自分が神や妖怪を作り出した」と語ることはほとんどありません。

 むしろ、「突然、目の前に現れた」「向こうからやって来た」「見せられた」「自分の意思とは関係なく体験してしまった」――そのように、自分ではどうすることもできない出来事として語ることが圧倒的に多いのです。そこにあるのは、能動的になにかを創作したという感覚ではありません。むしろ、自分という存在を超えたなにかに巻き込まれ、その通り道になってしまったような、強い受動性です。

 だとすれば、神話や妖怪の発生を考えるにあたって、わたしたちはまず「人間が世界をどう表象したか」という一方向の問いを、いったん括弧に入れてみる必要があるのではないでしょうか。むしろ問うべきは、人間という存在そのものが、いかなる条件のもとで、世界の側からの「現れ」を受け止める場となりうるのか、という問いであるのかもしれません。

 前説が長くなってしまいましたが、今回の記事では、この「現れ」のメカニズムを考察してみたいと思います。

1.世界はどのように「現れ」るのか

 では、人間はどのような条件のもとで、世界の側からの「現れ」を受け止めるのでしょうか。この問いは、神や妖怪、幽霊といった個別の存在を論じる以前に、人間が世界そのものをどのように経験しているのかという、より根本的な問題へと導きます。

 現代のわたしたちは、世界を「客観的に存在する対象」としてとらえることに慣れしたしんでいます。山は山であり、川は川であり、人間はそれらを外側から観察する主体です。この考え方では、人間と世界は明確に分離されており、世界はわたしたちとは無関係に存在する物質の集合として理解されます。そして人間の認識とは、その世界をできるだけ正確に写し取る営みであると考えられています。

 このような世界観は、近代科学の発展を支えてきたきわめて重要な前提でした。観察する主体と観察される対象を切り分けることで、人類は自然法則を発見し、科学技術を飛躍的に発展させてきたのです。

 しかし、このような主体と客体を厳密に分離する見方は、人類にとって普遍的なものではないかもしれません。古今東西の宗教や神秘思想、哲学の伝統をふりかえると、そこには驚くほど共通した世界理解が見えてきます。

 シャーマニズムにおける脱魂や憑依、キリスト教神秘主義における神との合一、イスラム神秘主義(スーフィズム)のファナー(自己消滅)、インド思想の梵我一如、道教におけるタオとの合一、仏教の空や縁起、西田幾多郎の純粋経験、など、その表現はさまざまです。

 しかし、それらが指し示している経験には、ひとつの共通点があります。それは、「自己と世界を隔てる境界がゆらぐ」ということです。

 日常生活において、わたしたちは世界を「私」と「私ではないもの」とに分けて理解しています。しかし、深い瞑想や祈り、宗教的恍惚、芸術的な没入、壮大な自然に圧倒された瞬間、あるいは臨死体験や極限状況において、人はしばしばその境界が薄れていく感覚を経験します。

 自分という存在の境界がゆらぎ、世界そのものが圧倒的な実在感をもって迫ってくる。そこでは、「世界を見ている」という感覚よりも、「世界の出来事の一部になっている」という感覚のほうが近いかもしれません。

 重要なのは、このとき失われるのは現実感ではないということです。むしろ逆です。神秘体験を経験した多くの人々は、「あのときこそがもっとも現実だった」と語ります。

 夢を見ているような曖昧さではなく、世界がこれまで以上の奥行きと密度をもって立ち現れ、時間の流れ方が変わり、自分という輪郭だけが静かに溶け、世界へと埋没していく。このとき人は、個人の小さな枠組み(自我、エゴ)から解放され、より大きな生命のネットワークや世界そのものと深く結びついているという感覚をとり戻すといわれています。

 こうした経験は、心理学では「自己超越」や「畏敬」、「臨死体験」、哲学では「純粋経験」、宗教学では「神秘体験」や「融即」、近年では「変性意識状態」など、さまざまな言葉で研究されています。名称は異なっていても、それらは共通して、人間が日常の認識のあり方を超え、世界との関係そのものが変容した状態を指しています。

 もし神や妖怪、あるいは神話や説話が、こうした地平から立ち上がってきたのだとすれば、それらは人間が頭のなかで自由に捏造した空想ではありません。かといって、人間の外側に独立した実体としてあらかじめ転がっていたわけでもありません。人間と世界との関係性がある特定の条件を満たしたとき、その「関係性」から自律的になにかが立ち上がる――。神秘体験者たちが「現れてしまった」と形容するものの正体は、このダイナミックな創発プロセスそのものだったのではないでしょうか。

 主客が融解した意識状態において、人間(主体、主観、自我)は世界を一方的にコントロールすることはできません。人間は世界の外側に立つ客観的な観察者ではなく、世界という生成変化の運動内部に組み込まれた「触媒」となるのです。

 この次元において世界を経験するとは、主体が対象を一方的に認識したり操作したりすることではありません。むしろ、能動でも受動でもない「中動態」的なあり方で、世界との相互作用そのものに巻き込まれていくことを意味します。人間と自然、内面と外面、主体と客体の関係は、固定されたものではなく、たがいに働きかけ合う動的な関係としてとらえ直されます。人間もまた、世界という大いなる秩序や循環の一部として生きている、となるわけです。

 人類は、この主客未分の関係性から自律的に生成される秩序や意味の奔流を、あるときは「神」や「精霊」、またあるときは「妖怪」、あるいは「気」「マナ」「縁起」など、それぞれの文化の言葉で呼び表したのではないでしょうか。

 このように、人間と世界が相互に浸透し合う動的な意識状態おいて、秩序や意味は主体が一方的に構成するものではなく、両者の相互作用のなかから自発的に生成されます。主客未分で中動態的な関係性による自律的な秩序や意味の創発こそが、「現れ」のメカニズムを解き明かす最大の鍵となるのです。


引用、参考記事

https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/9966/files/komyunikeshonkenkyu_2_35.pdf


 つづく

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