【掌編小説】竜骸の大地
むかし、空を統べるものがいた。
名は語られぬ。
ただ、人々はそれを「竜」と呼んだ。
雷を従え、風を裂き、
その影ひとつで昼を夜に変えたという。
あるとき、空が沈んだ。
雲は割れ、光は歪み、
巨大なものが、ゆっくりと地へ還る
それは戦いではなかった。
罰でもなかった。
ただ、時が満ちたのだと、
古き者たちは言った。
地はそれを受け入れ、
大いなる音とともに、静寂が訪れる。
――こうして、竜は地に眠った。
眠りは、やがてほどける。
肉は裂け、
血は溢れ、
その温もりは大地に染みていく。
香りが立つ。
それは死の匂いでありながら、
芽吹きの前触れでもあった。
最初に訪れたのは、名なきもの。
影を食むもの、
気配を啜るもの、
光の裏に棲むもの。
彼らは祝詞もなく、ただ集い、
静かに、しかし確かに、宴を始める。
それは終わりの宴ではない。
始まりの、宴であった。
やがて、竜はほどけていく。
骨は白き大地となり、
血は流れて川となり、
臓は肥沃な土へと変わる。
その上に、芽が立つ。
最初はひとつ。
やがて幾千。
苔が覆い、菌が巡り、
命は網のように繋がっていく。
翼は崖となり、
牙は塔となり、
瞳のあった窪みには、
深い水が満ちた。
人はそこを、こう呼ぶ。
――「竜骸の地」と。
竜骸の地には、数多の営みがある。
鹿に似たものが、骨の谷を渡る。
その角には、光る苔が揺れている。
羽持つ獣は、翼の崖に巣を掛け、
風の流れを読みながら、空を縫う。
鱗なき蛇は、血の川を泳ぎ、
その身に微かな熱を宿す。
小さき者たちは、骨の隙間に街をつくる。
彼らは土を掘り、根を編み、
季節を刻む。
時に、人も訪れる。
彼らはここを聖地とし、
骨に触れ、額を地に伏せ、
祈りを捧げる。
精霊と呼ばれるものたちもまた、
この地に宿るという。
風の精は翼の影に棲み、
水の精は血の川を巡り、
名もなきものたちは、
夜ごとに骨の奥で囁く。
だが、誰ひとりとして、
竜が空の支配者であった頃を知らない。
それでも、彼らは生きる。
ここを世界の中心として。
それで、よいのだと、
古き声は風に紛れて言う。
やがて、すべては巡る。
骨は崩れ、土となり、
土は命を育み、
命はまた、形を変える。
竜は消えたのではない。
ただ、ほどけたのだ。
大地へ、風へ、
水へ、そして無数の命へと。
そのすべてに、
かつての鼓動は残っている。
夜、静かに耳を澄ませば、
骨の奥から微かな響きがするという。
それは、鼓動。
森の奥で鳴る、
新しい心臓の音。
空を見上げよ。
遠く、まだ若い影が円を描く。
それもまた、いずれ落ちる。
そして地は受け入れ、
新たな世界が芽吹くだろう。
――これを、遠き世の者は神話として語る。
だがそれは、今も続く現である。
