四度目の出逢いは、パンの香りのなかで
第9話:本当の幕引き
ハッと息を吹き返した瞬間、視界を埋め尽くしていた真っ白な光は、瞬く間に煤けたセピア色へと収束していった。
耳の奥に飛び込んできたのは、無数の古い時計たちが刻む、カチコチという不規則な、だけど酷く落ち着く現実のテンポだった。鼻腔をくすぐる、古い紙と埃の混じった骨董屋特有の匂い。
気がつくと、私は骨董屋の冷たい床に膝をついていた。顔に宛がっていた「翁の仮面」が、まるで役目を終えたかのように、私の手のひらへと自然に滑り落ちる。
「……颯」
すぐ隣から、震える声が聞こえた。
見上げると、紗月がボロボロと大粒の涙をこぼしながら、私を見つめていた。その瞳には、さっきまであった「どこか遠い世界を見つめるような翳(かげ)」は、もう微塵も残っていない。
「紗月……全部、思い出したんだね」
「うん、全部思い出したよ……! 私の魂を繋ぎ止めてくれたのは、あの世界で私をずっと探して、絵を描き続けてくれたのは、あんただったんだね……。一年前のあの雨の日から、ずっと……」
紗月は我慢できなくなったように私の首に腕を回し、胸に顔を埋めて激しく泣きじゃくった。私はその小さな背中を、今度は現実の確かな質量を持ったその身体を、壊れないように優しく、だけど強く抱きしめた。
「ありがとう、紗月。あの雨の日に、ゴミなんかじゃないって、俺の絵のファンだって言ってくれて。君のあの言葉がなかったら、俺はもう二度と絵を描けなかった。君が俺の心を救ってくれたから、今度は俺が、君を救いたかったんだ」
二人の涙が混ざり合い、静かな骨董屋の床に落ちていく。
ただの偶然だと思っていた異世界での出会いは、私たちの強い祈りと憧れが手繰り寄せた、必然の奇跡だったのだ。魂の「核心」を取り戻した紗月の身体は、驚くほど温かく、生きるエネルギーに満ちあふれていた。
「ふむ……。実に見事な幕引きだ」
カウンターの奥から、パチ、パチ、と静かな拍手の音が響いた。
店主は、眼鏡の奥の目を細め、どこか満足そうに、だけど相変わらず偏屈そうな笑みを浮かべて私たちを見下ろしていた。
私は紗月を支えながらゆっくりと立ち上がり、手にした「翁の仮面」をカウンターの上へと静かに置いた。角度によって色を変えていた仮面は、今は不思議なほど静かで、ただの古い木彫りの仮面に戻ったかのように見えた。
「店主、ありがとうございました。この仮面のおかげで、俺たちは本当の始まりを思い出すことができた。……俺が使った三本の絵の具は、本当に魔法の道具だったんですね」
私の言葉に、店主はフッと鼻で笑い、パイプに火をつけた。紫煙が薄暗い店内にゆっくりと広がっていく。
「魔法、か。お前たち凡人は、自分の理解を超えた奇跡をすぐにそう呼びたがる。だがな、画家よ。あの三本の絵の具は、単なるきっかけに過ぎん。魂を物質に定着させる触媒ではあったが、そこに『命の世界』を描き出し、この娘の魂を呼び寄せたのは、他でもないお前自身の筆の力だ」
店主はパイプをくわえ直すと、真剣な眼差しを私に向けた。
「お前が死に物狂いで、焦燥の中で紡ぎ出した色彩が、彼女の閉ざされた心の扉を叩き続けたのだ。どれほど優れた絵の具があろうとも、描く者の魂が乗らねば、キャンバスの上には何も生まれん。お前は、自分の力であの娘の命を現実(ここ)へ連れ戻したのだよ。胸を張るがいい」
店主のその言葉は、画家としての私の心に、何よりも深く、暖かく染み渡っていった。かつて自分の才能に絶望し、泥まみれになって泣いていたあの日の自分に、教えてあげたいと本気で思った。お前の絵には、一人の人間の命を救うほどの価値があったのだと。
「さあ、用が済んだなら、さっさと行きなさい。うちは骨董屋だ、長居されては商売の邪魔になる」
店主はいつもの無愛想な態度に戻ると、カウンターの上の木箱に翁の仮面を収め、パタンと蓋を閉じた。その手つきは、物語の幕を完全に閉じるかのように、静かで厳かだった。
「はい。本当に、ありがとうございました」
「ありがとうございました!」
私たちは店主に深く一礼し、しっかりと手を繋いだまま、骨董屋の重厚な木製の扉を押し開けた。
カランカラン。
心地よい鈴の音が、私たちの背中を見送る。
一歩、外へ踏み出した瞬間、私たちは思わず目を細めた。
真冬の冷たくも澄み切った、眩いばかりの青空が頭上に広がっていた。太陽の光が、現実世界の街並みを、雑踏を、そして私たちの影を、鮮やかに地面へと描き出している。
「うわあ……綺麗な青空」
紗月が眩しそうに空を見上げ、それから私を見て、ひまわりのように笑った。
「ねえ、颯。これからどうする?」
「そうだな……。まずは、君の焼いたパンを食べに行こう。それから……」
私は繋いだ手の温もりを確かめながら、まっすぐに前を見据えた。
「俺の、新しいキャンバスを買いにいこう」
あの三本の絵の具は、もうない。これからは、現実世界にあるありふれた絵の具で、私の手で、私たちの未来を描いていくのだ。
異世界の旅は、ここで完全に終わった。
しかし、現実世界という名の、私たちの「本当の物語」は、今ここから新しく始まるのだ。
