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四度目の出逢いは、パンの香りのなかで


第5話:焦燥の夜、そして始まりの場所へ

「紗月、離さない!」と叫んだ直後、視界を埋め尽くした真っ白な光。
ハッと目を開けた時、私の手の中にあったはずの温もりは消え失せ、冷たい自室の床が広がっていた。窓の外は、いつもの静まり返った現実世界の夜だ。
キャンバスの中では、ウェットスーツ姿の紗月が、ヨットの甲板の上から寂しげに、だけど愛おしそうにこちらを見つめている。
「ダメだったのか……。結局、絵の具のルールは変えられないのか……!」
絶望のあまり床に拳を叩きつけたその時、脳裏に昼間の店主の言葉が鮮烈に蘇った。
『現実へ戻ってきたとき――あの仮面を顔に宛がうがいい。その時、この物語の本当の幕が上がるだろう』
あの翁の仮面なら、この絶望を打ち破れるかもしれない。私は立ち上がり、上着をひったくるように掴むと、夜の静寂を切り裂いて骨董屋へと全力で走り出した。彼女を救いたい、その一心で、ただ無我夢中で夜道を駆け抜けた。
ハァハァと荒い息を吐きながら、ようやく見慣れた骨董屋の前にたどり着く。私は勢いよく扉を押し開けようとした。
ガチャン。
重い木製の扉は、びくともしなかった。
暗闇の中で目を凝らすと、ドアノブの横に小さなプレートがぶら下がっている。そこにはハッキリと「CLOSED」の文字。
「……あ。今、真夜中じゃん……」
あまりの焦燥感に、店が閉まっている時間帯だという至極当然の事実を完全に失念していたのだ。緊迫した空気の中、私は自分の迂闊さに脱力し、その場にがっくりと膝をついた。

翌朝。気を取り直した私は、開店時間と同時に再び骨董屋の扉を叩いた。カランカラン、と乾いた鈴の音が響く。
カウンターの奥には、昨日と変わらぬ様子で店主が座っていた。その手元には、例の木箱に収められた「翁の仮面」がある。角度によって妖しく色彩を変えるその顔は、まるで私を値踏みしているかのようだった。
「店主、頼みます! あの仮面を、俺にください!」
私はカウンターに身を乗り出し、必死に訴えかけた。
「三回目の旅は終わりました。彼女を連れ戻そうとしたのに、ダメだったんだ。店主が言った通り、現実に戻ってきた。だから、その仮面を……!」
しかし、店主は翁の仮面を見つめたまま、静かに首を横に振った。
「まだ、その状況でない。今はまだ、これを渡すわけにはいかんな」
「どういうことですか!?」
私は思わず声を荒らげた。
「三本の絵の具はすべて使い切った! ルール通りに彼女の手を握って戻ってきたんだ。これ以上、何をしろって言うんですか!」
店主は、深く刻まれた顔の皺をわずかに動かし、謎めいた笑みを浮かべた。
「お前は彼女の手を握った。だが、物語の『本当の幕』が上がるには、まだお前自身が気づいていない『何か』がある。焦るな、画家よ。この物語は、お前が思っているほど単純ではない」
「理解できない……。どういうことなんだ……」
どれだけ問い詰めても、店主はそれ以上何も語ろうとはしなかった。
結局、私は仮面を手に入れることができないまま、釈然としない思いを抱えて店を後にするしかなかった。「まだその状況ではない」とは一体どういう意味なのか。なぜ仮面はまだ私に授けられないのか。
頭の中に無数の疑問が渦巻く。しかし、店主のあの確信に満ちた目が、まだこの物語には続きがあるという奇妙な余韻を、私の胸に深く残していた。

それから数日が流れた。
私は絵筆を握ることもできず、ただぼんやりとした日々を過ごしていた。
ある日の昼下がり、気がつくと私は、いつもの散歩コースを歩いていた。向かう先は、紗月と出会う前にいつも通っていた、お気に入りのベーカリーだ。
あの緑豊かな風景の中を歩きながら、ふと思う。彼女が実在したあの世界でも、彼女はパン屋やダイビングショップで働いていた。もし、この現実世界でも……。
そんな淡い期待と切なさを胸に、私はベーカリーの扉へと近づいていく。
この場所が、紗月との運命の再会へと繋がっていることなど、その時の私はまだ知る由もなかった。

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