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琥珀色の記憶を、パンの香りにのせて 第一話

第一話 消えた場所と、休日の散歩

朝の八時。いつものパン屋の重い木製ドアを押すと、焼き上がったばかりのクロワッサンが放つ香ばしいバターの香りが、一気に僕たちを包み込んだ。
「おはよう、二人とも。今日はいい焼き加減だよ」
奥の厨房から現れたマスターは、いつものように穏やかな笑みをたたえ、トングで焼き立てのパンをトレーに並べている。手際よく動くその太い指先と、どこか照れくさそうに目を細める表情を見ているだけで、僕と紗月の心はふんわりと解きほぐされていく。
「マスター、クロワッサン二つと、いつもの食パンをお願いします」
「はいよ。今日も仲がよろしいことで」
そう言って笑うマスターに、紗月が少し頬を染めながら「ありがとうございます」と応える。四度目の出逢いを経て、僕と紗月が恋人同士として重ねてきた日々は、このパン屋の温かな空気とともにゆっくりと深まっていた。
焼き立てのパンを抱えて店を出たあと、僕たちはあてもなく街を歩き始めた。爽やかな朝風のなかを歩きながら、紗月がふと思い出したように言葉をこぼす。
「ねえ、颯くん。帰り道、あの骨董屋さんの方に寄ってみない?」
前作で僕たちが足を踏み入れた、街外れの小さな骨董屋。セピア色の記憶が眠るようなあの空間を、紗月はとても気に入っていた。
「いいよ。ひさしぶりに行ってみようか」
けれど、僕たちが辿り着いたその場所には、ただぽっかりと静かな空き地が広がっているだけだった。
古い木の扉も、窓辺に飾られていたアンティークのランプも、すべてが幻だったかのように消え去っていた。足元には、かつて店があったことを示す薄い泥の痕跡が残っているばかりだ。
「……なくなっちゃったんだね」
紗月は立ち止まり、ぽつりと呟いた。風に揺れる髪を押さえながら、寂しそうにその場所を見つめている。
「どこか遠くへお引っ越しちゃったのかな。何も言わずにいなくなっちゃうなんて、あのおじさんらしいといえば、らしいけれど」
「そうだね。あの店主さん、風みたいな人だったから」
僕はそう言って紗月の肩にそっと手を回した。消えてしまった場所を惜しむ彼女の横顔を見ながら、形のあるものはいつか移ろっていくのだという当たり前の事実に、胸が少しだけ痛んだ。
それから数ヶ月が経ち、季節がひとつ巡ったある休日のこと。
僕と紗月は、普段はあまり足を踏み入れない隣街の古い商店街を訪れていた。目的のない散歩の途中で、迷路のように入り組んだ細い裏路地へとふらりと迷い込む。
湿った石畳と、古びたレンガの壁。昼間だというのに日差しが届きにくいその路地は、どこか浮世離れした静寂に満ちていた。
そのときだった。
――チリン。
頭上から、かすかだが確かに聞き覚えのある、澄んだ金属音が降り注いだ。
風に揺れる、真鍮の風鈴。
紗月がハッと息をのんで足を止める。僕もまた、吸い寄せられるように視線を上げた。
路地の奥、ひっそりと佇む一軒の店のドアノブに、あの時と同じ真鍮の風鈴が吊り下げられていた。

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