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四度目の出逢いは、パンの香りのなかで

第7話:仮面の啓示

ベーカリーでの奇跡的な再会から、一週間が瞬く間に過ぎ去っていった。
あの涙の後、店長は目を丸くして驚いていたが、「なんだ、そういうことか!」と豪快に笑って、その日は特別に早上がりにさせてくれた。現実世界の紗月は、私が絵の中で共に過ごした彼女と何一つ変わらなかった。よく笑い、よく話し、少しだけお転婆で、そして私の隣で本当に嬉しそうに歩く。
昼下がりの公園のベンチで、私たちは並んでパンを食べていた。
「ねえ、颯。このクロワッサン、あの白いお城の街で食べたやつに、ちょっと味が似てない?」
紗月は悪戯っぽく微笑みながら、ベーカリーのパンを小さくちぎって口に運ぶ。
「ああ、本当にそうだな。あの時は、君が突然パンを差し出してきて驚いたよ」
「だって、颯が今にも行き倒れそうな顔をして歩いてるんだもん。放っておけるわけないじゃない」
そんな他愛のない会話を交わすたび、胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていく。三本の絵の具を使い切り、孤独な絶望に打ちひしがれていたあの夜が、まるで遠い昔のことのようだった。私はついに彼女を現実に連れ戻し、こうして生身の温もりに触れている。これ以上の幸福なんて、この世に存在するはずがなかった。
しかし、ふとした瞬間に、紗月の瞳に小さな翳(かげ)が走るのを、私は見逃さなかった。
それは、風が木々を揺らしたときや、遠くで波の音が聞こえたような気がしたとき。彼女は決まって動きを止め、どこか遠い世界を見つめるような目をするのだ。
「……紗月? どうしたんだ?」
私の声に、紗月はハッと我に返り、慌てていつもの眩しい笑顔を作った。
「ううん、なんでもないの。ただね……」
彼女は自分の胸のあたりを小さな手でそっと押さえ、心細そうに視線を落とした。
「颯に会えて、こうして一緒にいられて、夢みたいに幸せ。それは本当なの。でもね、時々、胸の奥が少しだけ冷たくなるの。あの夢の世界に、私の『一番大切な何か』が、まだ取り残されているような……そんな不思議な違和感が、どうしても消えなくて」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に電流のような衝撃が走った。
脳裏に鮮烈に蘇るのは、あの日の朝、骨董屋の店主が放った謎めいた拒絶の言葉だ。
『物語の本当の幕が上がるには、まだお前自身が気づいていない何かがある。お前がここに来たのは、まだ焦燥だけだ』
『まだ、その状況でない』
(そうか……そういうことだったのか……!)
店主が言っていた「状況」とは、私一人で焦って店に駆け込むことではなかったのだ。現実世界で紗月と再会し、二人の心が完全に重なり合った今こそが、その「時」だったのだ。
私は紗月の両手をそっと握りしめ、その目を見つめた。
「紗月、確かめに行こう。俺たちの運命が始まった、すべての始まりの場所へ」
* * *
カランカラン、と静かな店内に鈴の音が響く。
三度目となるその骨董屋は、昼間だというのに相変わらず薄暗く、無数の古い時計たちがカチコチと不規則なテンポで時を刻んでいた。
「おや、二人連れとは珍しいな。……いや、待ちわびたと言うべきか」
カウンターの奥から、低く掠れた声が響いた。店主は、眼鏡の奥の深い光を宿した目で私たちを見つめ、それからフッと満足そうに口元を歪めた。その視線は、私たちがしっかりと繋いでいる手に注がれている。
「店主、言われた通り、彼女に会えました。だけど、彼女はまだ……」
「分かっている」
店主は私の言葉を遮るように手を挙げると、ゆっくりと立ち上がった。そして、カウンターの下から、あの見覚えのある古い木箱を取り出した。
蓋が開けられる。中から現れたのは、角度によって妖しく色彩を変える、あの「翁の仮面」だった。薄暗い店内の光を浴びて、仮面はまるで生き物のようにかすかな光彩を放っている。
「ようやく『状況』が整ったようだな、画家よ。お前が連れてきた彼女こそが、この物語の最後の鍵だ」
「最後の鍵……。店主、この仮面は、一体何なんですか? 俺たちが絵の中で過ごしたあの時間は、本当にただの夢だったんですか?」
私の問いに、店主は翁の仮面を愛おしそうに見つめながら、静かに首を振った。
「夢などという、安易な言葉で片付けるものではない。お前が使った三本の絵の具――あれはな、現実世界で深い絶望と昏睡の淵にあったこの娘の魂を、現世へと繋ぎ止めるための『キャンバス』だったのだ」
店主の口から語られた真実は、あまりにも壮大で、私の理解を超えていた。
「この娘の魂は、現実の肉体から離れ、彷徨っていた。お前が絵を描き、その世界に魂を吹き込んだからこそ、彼女はその世界で生きることができた。お前が彼女の手を握って現実に戻ってきたことで、魂の大部分は肉体へと還った。だが……魂の『核心』、お前たちを繋ぐ真の記憶は、まだあの場所に取り残されたままだ」
紗月が隣で息を呑むのが分かった。彼女の手が、私の手を強く握り返してくる。
「魂の核心……それが、店主の言う『本当の幕』ですか?」
「いかにも。二人が現実で再び出会い、お互いを認識した今、初めてこの仮面の封印が解ける」
店主は木箱を持ち上げ、私の目の前へと差し出した。
「これを顔に宛がうがいい。そうすれば、お前たちがなぜあの絵の世界で出会わなければならなかったのか、すべての始まりの記憶――『本当の幕』が上がる。ただし、真実を知る覚悟があるならばな」
仮面から放たれる圧倒的な存在感に、私は一瞬、気圧されそうになった。これを着ければ、何かが決定的に変わってしまうかもしれない。得体の知れない恐怖が胸をよぎる。
しかし、隣にいる紗月を見つめると、彼女はまっすぐな瞳で私を見ていた。その瞳には、恐怖ではなく、私への絶対的な信頼が宿っていた。
「いこう、颯。二人で、本当の始まりへ」
「ああ……。一緒にいこう、紗月」
私は覚悟を決め、木箱からゆっくりと「翁の仮面」を持ち上げた。手のひらに伝わる、現実のものとは思えない不思議な冷たさと質量。
息を深く吸い込み、私はその仮面を、自分の顔へとゆっくりと宛がった。
――その瞬間。
世界から、すべての音が消えた。
骨董屋の時計の音も、街の喧騒も、何もかもが消滅し、目の前が猛烈な、目も眩むような真っ白な光で満たされていく。
「――颯!」
遠くで紗月の叫ぶ声が聞こえた気がした。いや、違う。私の手を握る彼女の感覚ごと、私たちは凄まじい速度で「空間」と「時間」の濁流へと引きずり込まれていく。
現実の壁がガラガラと崩れ落ち、光の渦の向こうから、見たこともない、だけど酷く懐かしい「もう一つの景色」が姿を現そうとしていた。

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