白い霧の約束 第七話
前回の話
北の大地で、ナミは母と二人、古いマンションで暮らしていた。
昼は大学に通い、夜はコンビニでアルバイト。
母もまた、昼と夜をまたぐ不規則な仕事に出ている
決して楽な生活ではなかった。
家賃の支払い日が近づくたび、冷蔵庫の中は静かに寂しくなっていく。
それでも――
ナミは、不思議と満たされていた。
大学では、自分の居場所があった。
少しずつだが、前に進めているという実感もあった。
ナオコは、来年の大学受験に向けて本格的に勉強を始めているらしい。
時々、岸本君に勉強を教わっている、という話も耳にした。
ナミは、ナオコが前を向いていることが、素直にうれしかった。
――みんな、それぞれの場所で生きている。
そう思っていた。
その日の夕方
母が、珍しくソファに腰を下ろしたまま、スマートフォンの画面を見つめていた。
指が止まり、顔色が、わずかにこわばっている。
「……どうしたの?」
声をかけると、母ははっとしたように顔を上げた。
「なんでもないよ」
少し無理に作ったような笑顔だった。
「仕事の連絡?」
「ううん、違うの。大丈夫だから」
それ以上、母は何も言わなかった。
けれど――
ナミの胸には、言葉にできない違和感だけが、静かに残った。
その嫌な予感は、夜になって現実になる。
アルバイトを終え、マンションに戻ると、玄関の鍵が開いていた。
「……え?」
部屋の中は電気が消えたままで、しんと静まり返っている。
「お母さん?」
返事はなかった。
胸がざわつく。
一歩、また一歩と部屋に入ると、カーテンが揺れていた。
冷たい風が、頬に触れる。
ベランダの窓が――開いていた。
ナミは、ゆっくりと近づいた。
そして、そこで見てしまった。
ベランダの隅で、怯えた表情の母。
その脇腹に刃先を突きつけて立っている少女。
――ユミカ。
「……ユミカ……?」
ナミの声は、震えていた。
「ユミカ……お願い……お母さんを、離して……」
ユミカは、ナミを見ると、ゆっくりと笑った。
「ねえ。あたしの話、聞いてくれる?」
刃物を握る手が、かすかに揺れている。
「……あたしさ。
おねえちゃんに話した通り――ナオコの“秘密”、ちゃんとナオコに返したんだよ」
ナミは、息をのんだ。
「そしたらね」
ユミカは、淡々と続ける。
「学校に、あたしと友だちが飲酒してる写真が、匿名で送られてきた」
「……」
「もう、大学行けなくなった」
静かな声だった。
「お父さんもさ……」
一瞬、視線が揺れる。
「お母さんがいなくなってから、ちょっと壊れちゃって……」
そして、ナミをまっすぐに見つめた。
「だからさ。やっぱり――
おねえちゃんと、お母さんに、帰ってきてほしいの」
「……ユミカ……」
「お父さんのためだけじゃない」
声に、次第に熱がこもっていく。
「あたしのためでもあるんだよ」
ナミは、ゆっくりと首を振った。
「……それは、できない」
その瞬間、ユミカの表情が歪んだ。
「……あたしはね」
低く、かすれた声で言う。
「おねえちゃんがいないと、ダメなんだよ」
刃物が、わずかに母の体に食い込む。
「もし、言うこと聞いてくれないならさ」
ぞっとするほど冷たい声で、ユミカは続けた。
「おねえちゃんも、お母さんも――
最初から“いなかったこと”にするって、さっきお母さんに言った」
「……!」
母が、必死に首を振った。
「戻らないって……」
震える声で、母は言った。
「ナミと……ここで暮らすって……」
「……だから……」
母は、ユミカに向かって、懸命に言葉をつなぐ。
「ユミカも……幸せに……生きてほしいって……」
その言葉が、ユミカの中で、何かを壊した。
「……だからっ!!」
叫び声が、夜の空気を裂いた。
「それができないから、お願いしてるんでしょ!!」
次の瞬間だった。
母が、必死に刃物を掴もうと手を伸ばした。
二人の体がもつれ合い、悲鳴が重なり――
ほんの、一瞬。
バランスを失った母の体が、ベランダの柵を越えた。
「……っ!」
闇の中へ、消えていく。
「お母さん!!
お母さん!!」
ナミの叫びが、夜に吸い込まれた。
ナミがその場で立ち尽くし、混乱の中で叫び続けている間に、
ユミカの姿は、もうそこにはなかった。
その後、自分がどう動いたのか、ナミにはまったく覚えがない。
気がついたとき、白い天井が視界にあった。
病院だった。
隣のベッドには、母が横たわっている。
顔には痛々しい傷があったが、胸は、確かに上下していた。
「……よかった……」
警察から、説明を受けた。
母は五階のベランダから落ちたが、
途中、マンションの脇に立っていた木に体が引っかかり、
そのまま植え込みの方へ落ちたという。
まるで――
何かに守られたかのように。
命に別状はなかった。
けれど。
ナミの胸の中にある重さは、少しも消えなかった。
⸻
ナミは、無意識のうちに病室を抜け出していた。
気がつくと、病院の近くにある橋の上に立っていた。
下を流れる川は、黒く、音もなく流れている。
街の灯りだけが、水面に細く引き裂かれていた。
手すりに指先をかけたまま、ナミは、ぼんやりと水を見つめる。
(……私がいる限り)
言葉にならない思いが、胸の奥で沈んでいく。
(誰も、幸せになれない)
息を吸っても、肺の奥まで空気が届かない気がした。
ふと、自分の腕を見る。
闇が、まとわりつくように揺れていた。
煙のようで、霧のようで、
それが自分の影なのか、心なのか、ナミには分からなかった。
ナミは、静かに手すりを越えていた。
「……闇に飲み込まれてはいけない。止めるんだ」
遠くで、誰かの声がした気がした。
けれど、その声は、波にさらわれるように薄れていく。
次の瞬間。
ナミの体は、宙に放り出されていた。
⸻
冷たい。
そう思ったときには、もう全身が水の中だった。
耳の奥で、鈍い音が鳴る。
視界が、ゆっくりと暗くなっていく。
――ああ。
沈んでいく。
そのとき。
「ナミ!!」
水の向こうで、誰かが叫んだ。
白い泡が弾け、影が、まっすぐこちらへ向かってくる。
――ミチ?
違う。
あのときの……。
意識がほどけていく、その直前。
その人は、ナミの胸元に手を伸ばした。
指先が、胸の奥へ沈み込む。
次の瞬間。
青い光が、静かにあふれ出した。
まるで、心臓の奥に、小さな星が灯ったように。
その光は、そのまま――
ナミの胸へ押し込まれた。
⸻
目を開けると、夜の空があった。
濡れた髪が、頬に貼りついている。
遠くで、川の音がする。
ナミは、動けずに、ただ息をしていた。
少し離れた場所に、誰かが立っている。
逆光の中で、その輪郭だけが浮かんでいた。
ナミは、ゆっくりと、その顔を見る。
胸の奥が、強く、脈を打った。
――知っている。
小学生の頃、物置きに閉じ込められた時に助けてくれた人。そして……
あなたは……
生まれ変わりの“あいだ”で、会った人。
青年は、静かに口を開いた。
「あの時、オレは――君に、嘘をついた」
ナミを、まっすぐに見る。
「人間に転生したって……言ったけど」
一拍、間を置いて。
「本当は――」
低く、はっきりと。
「オレは、“死神”だ」
第七話
了
※本作品はフィクションです。
登場する人物・団体・出来事はすべて架空のものです。
実在の人物や団体、出来事とは一切関係ありません。
