見出し画像

白い霧の約束 第二話

前回までの話


夢の中、
白い霧の中で何かを回す音だけがしている。

それが自分なのか、違うのか、分からない。

――選ぶ、という感覚だけが残っていた。

「……ナミ、起きなさい」

低く、静かな声に、私は目を開けた。

見慣れた天井。
まだ夜の名残を残した、薄暗い部屋。

カーテンの隙間から、朝と呼ぶには早すぎる、冷たい光が滲んでいる。

枕元に立っていた母は、周囲を気にするように一度ドアの方へ視線を走らせてから、小さく息を吐いた。

「早く。
……また、あの人が騒ぐ前に」

私は何も言わず、布団を抜け出す。

この家での朝は、いつも掃除から始まる。
私の部屋はない。
正確に言えば、名前だけの部屋があるだけだ。

夜に敷いて、朝に畳む布団。
それと、最低限の居場所。

廊下を拭き、リビングを整え、最後に玄関のたたきを掃く。
それが終わるころ、ようやく家は「一日の始まり」を許される。

母と並んでキッチンに立つ。
私は野菜を洗い、母は黙って鍋に火を入れる。

そのとき、ふと目に入った。

母の頬が、わずかに赤い。

――また、だ。

義理の父は、時折、母に手を上げる。
母はそれを責めもしない。
責められる立場にないことを、よく分かっているからだ。

「おはよう」

何事もなかったかのように、母が微笑む。

「……おはよう」

私も、同じように微笑み返す。
この家では、それがいちばん安全な挨拶だった。

しばらくして、母がぽつりと言う。

「大学受験、もうすぐね」

鍋の中を見つめたまま、続ける。

「……あなたは、この家を出なさい」

私の手が、わずかに止まる。

「お金は、お母さんがなんとかするから」

それは、逃がそうとする声だった。
私だけを、ここから。

私は、首を振った。

母を、この家に置いていくつもりはない。

「お母さん、あのね――」

そう言いかけた、そのとき。

キッチンの入り口に、影が落ちた。

ユミカが、何も言わず、こちらを見ていた。

その視線に、胸の奥が冷える。

数か月違いの、同い年の妹――ユミカ。

母は、私が二歳のころに離婚し、私を連れて今の父と再婚した。
それは、小学二年生の冬だった。

父もまた、再婚だった。

義理の父は、ユミカを溺愛していた。
私にも、最初のころは優しかった。

抱き上げられた記憶も、頭を撫でられた感触も、確かに残っている。
だからこそ、その変化に気づいてしまった。

――思い出す。

ユミカと初めて会ったのは、小学二年生の冬だった。

母が再婚し、私たちは家族になった。
義理の父は、最初はとても穏やかで優しい人だった。

けれど、時間が経つにつれ、少しずつ変化が現れた。
あの優しかった父の目が、疑い、そして不信の色を帯びていったのだ。

そんなある日。

学校帰り、私の少し前を歩いていたユミカが転び、膝を擦りむいた。

大した怪我ではなかった。
私は近くの公園の水道で膝を洗い、持っていた絆創膏を貼ってあげた。

「ありがとう、お姉ちゃん!」

屈託のない笑顔でそう呼ばれ、胸の奥があたたかくなったのを、今でも覚えている。

――けれど、その日の夜だった。

仕事から帰ってきた父は、しばらくして突然、私の部屋――名前だけのその場所に、踏み込んできた。

「お前、ユミカをわざと転ばせたらしいな。それだけじゃない。
ユミカは泣きながら話してくれたよ。腕や背中に青あざがある。
お前がやったってな!」

違う。
私じゃない。

そう言いたかった。
けれど、そのときの父の目は、憎しみに満ちていた。

初めて向けられた、大人の本気の憎悪。
怖くて、喉が張りついたように、言葉が出なかった。

――それ以来、父は私を娘として見なくなった。

私とユミカ。
同じ家にいながら、はっきりと違う扱いを受けるようになった。

ユミカが、自分でやったはずだった。
――少なくとも、私はそう信じている。

けれど、真実を確かめることは、今でもできないままだ。

私は、ユミカに対して、ずっと問いかけたい言葉を胸にしまい込んでいる。

ユミカ、どうして――と。


第二話


※本作品はフィクションです。
登場する人物・団体・出来事はすべて架空のものです。
実在の人物や団体、出来事とは一切関係ありません。


#小説
#フィクション
#連載
#転生
#運命
#選択

いいなと思ったら応援しよう!