セックスと死の文学、村上春樹

まずはじめに、「心」のお話を

最近、「オメーは人の心がない、行動原理が虫と同じでほぼフローチャート」と言われたので今日は僕が思う「心」について書いていこうと思います。
皆さんは心という言葉を聞いて、どういったものをイメージするでしょうか。
僕の心は、とてもジメジメとして壊れかけの蛍光灯がチカチカと点滅している暗い小部屋です。

そもそも心がどこにあるのかという議論だけで、数千年続いてきたものですので、ここでは割愛。
その小部屋に、いろいろな感情を押し込んで加工しているのが僕が思う心です。
私たちは、この鬱屈とした現実を生きているなかで、さまざまな悩みを抱えています。
それは、対人関係のものであったり、はたまたお金のことであったり、本当に様々な「悩み」が私たちの周りを取り巻いています。

あくまでも持論ですが、悩みというのは現実から持ち込んだ様々なものを心が処理できなくなることによって生じる、一種のバグに近いものです。
そのバグを取り除く方法はいくつかありますが、一番応急的な処置は、あったかいお風呂に入ってひとまず寝ることです。
一番よくないのは夜にその対処をしようとすることです。 心というのは先ほども言ったように暗い小部屋です。
陽の光が射さない時間では、手元がよく見えません。

夜は感傷に浸る時間ではなく、心を休ませる時間なのです。
もちろん現実を解決しなければ話は前には進みませんが、それは昼間にやることなのです。
時間は勝手に進みますし、太陽は自動的に昇って沈みます。 それをコントロールできるほど私たちは大きな存在ではありません。
では抜本的なバグの解決方法はないのか? あります。
その根っこを消し去ればいいのです。 しかし、それができれば元も子もありませんね。
問題は、どう悩むのか、どう心に負担をかけずに悩みを解決していくのかです。
カギは発想の転換です。

僕は意味が分からないぐらいお金があるときでも、逆に明日食べるものがないほどお金がないときでもそこまで幸福度に差はありません。
幸福受容体の質が低いのか、僕の性分なのかはわかりませんが、高望みをしたところで僕が今持ち得るもので幸福を感じるしかないですからね。
「足るを知る」というほど高尚なものではありませんが、期待しすぎると辛いのは自分です。

SNSが私たちにもたらした最大にして最悪の不幸は、「世界の可視化」です。
望む望まざるに関わらず、世界中のあらゆる人の手によって氾濫する情報の海にアクセスしているわけですから、本来ならば死ぬまで見ることもなかったであろう景色を指先ひとつで簡単に見ることができるようになりました。

するとどうでしょう、SNSを利用する人の中には妬みや嫉みを感じる人も出てきてしまいました。
はじめから手が届くはずもないのに、画面の向こうに広がっている世界に憧れを抱いてしまったのです。
よく考えればおかしな話ですね。
同じ世界ではありますが、そこは全く違う次元にある世界だというのに。

悩みの本質もこれに似ています。
結局、どこまで思い悩んでも私たちが左右できるものごとなど、手のひらに乗るほどのことしかありません。
社会性を有しているとはいえ、私たちは神ではなく、あくまでも言葉を話すだけの獣にすぎないのです。

言葉によって複雑になった思考回路から生まれる、認知のバグを、僕たちは悩みと呼んでいるに過ぎないのです。

では重要なのは、どう悩むのかになってきます。
はい、かいいえ、ではなく、選択肢に幅を持たせる考え方をすることによって、すぐに解決はしなくともシミュレーションの数が増えていきます。
そして、上手くいけばその中に正解の糸口を見出すことができます。

とはいえ、人間は視野が狭く、陰鬱としていて、他人の心の内など読めない不器用な生き物です。
手のひらに乗った問題すらまともに解決できないかもしれません。
しかし、それでも明日をやり過ごして生きていかなければならないのなら、上手く目をつぶって知らんぷりするのも必要なのではないでしょうか。

話が少し逸れましたね、「心」の話に戻りましょう。 先ほど言ったように、他人の心など僕たちにはわかりません。
せいぜい、その心から漏れ出る欲求の、ツンとすえた匂いをかぎ分けるぐらいでしょう。

心とは本当になんなのでしょう。

僕の思う心、つまり暗くジメジメした小部屋には、現実からの情報が流れ込み、その度に少しばかり様相を変えます。
例えば、今聞いている椎名林檎によって少しばかり温かみのある色の蛍光灯が点滅するように。

メタ的な視点をするのであれば、心とは脳が処理しきれなかった五感のゴミ捨て場なのです。
今こうして何かを感じている私たちの人格を、私たち自身が知覚しきれないのと同じように。
脳がこぼしてしまった処理水のようなものを少しずつこして、どこか知らないところに流す器官こそが「心」なのです。

こういったとらえ方をしているからこそ、僕は「心がない」と言われるのかもしれません。
しかし、これが心を捨てている人間の特徴なのだとしたら、かなり楽に生きられるのでそこまで悪くないですよ。

僕は元来他人の気持ちが分からない人間なので、他人の悩みや愚痴を心の栄養として取り込んで生きてきました。
だからこそ、心があるフリをするのが上手いのかもしれません。
みなさんに本当の心があるなら羨ましい限りです。
少しでも換気を良くして、心を健やかに保っていただければ嬉しい限りです。

僕と関わってくれる全ての人が少しでも幸せになればと、本心より願います。
皆さまの眠りが悪い夢に侵されませんように。

本心と言いましたが、心を持ち合わせていないのを忘れていました。
ジメジメとした暗い小部屋の中より、祈っております。

ようやく本題。ここから読んでくれても全然大丈夫です。

「やれやれ、僕は射精した」

おそらく村上春樹の中で一番有名であろうこのフレーズは、「ねじまき鳥クロニクル」という小説に実際に出てきます。

謎の女からの突然の電話で始まる、テレフォンセックスが終わり、気づいたら射精をしていた主人公が漏らす独白です。

率直に、気持ち悪いですね。

昭和の純文学というのは、往々にして「いかに小洒落たセックス」を描くのかに注力しているものと考えています。
その中でも特に村上春樹はファンタジーと哲学、そして少年性からの脱却を主なテーマとして様々な小説を書き記してきました。

射精が無い小説は村上春樹が書いたものではない、そう言い切れるほどに、彼の小説には濃厚なセックスシーンが描かれます。
それも、とても自然な導入なので読んでいる側からすれば、「やれやれ、またはじまったか」と思う暇も無く気づけば挿入が完了していることがほとんどです。

2020年に発売された短編集『一人称単数』では、開幕2ページか3ページ目で、もうことを済ませていたので、久しぶりの新作でも相変わらずだなあと笑ったものです。
それほどまでに、こだわり抜かれた性描写はもはやアートと呼べるほどに昇華されています。

そんな性描写の権化のようなおじさんですが、彼の描くファンタジーはとても骨太で、技巧に満ち溢れた素敵な世界を僕たちに追体験させてくれます。 特に、『羊をめぐる冒険』以降の長編小説は、その色が強く、どこまでが現実でどこからが違う世界の話なのか、はたまたはじめから全てそうだったのか。

読者が追いつく暇も無く、物語が展開されていきます。
たいていは「僕」と自称する名前の無い主人公の視点を持って世界を見ている話がほとんどで、その一人称の希薄さも相まってか、村上春樹の世界に没入するのはそう難しくありません。

とはいえ、それは前期村上春樹のお話、(あくまで僕がそう定義しているだけですが) 『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』からは、少し作風が変わります 。
と言いつつも、相変わらず夢かうつつかもわからない独特の世界観は変わることはなく、ただ私たちに提示される世界の視点が増えたに過ぎません。

この『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』からは、現実と、この世のどこにもない場所、というふたつの場所にそれぞれ主人公と呼べる語り部が存在し、それぞれの章が交互に展開されるというパラレルな物語構成をとっています。

ひとまとめにしてしまいましたが、この様式が取られているのは『1973年のピンボール』、『海辺のカフカ』、『1Q84』ぐらいでした。
やはり構成が特殊なので、もともと筆の遅い彼からすればよりエネルギーを使うのかもしれません。

彼の小説は、よく「生と死」をひとつのテーゼとして扱います。 なかでも『ノルウェイの森』の「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」という一文はある種、この世界の核心をついたものかもしれません。

死というのは、身の回りの様々なものに少しずつ含まれていて、その塵のようなものを俺らは日常の中で取り込んでいるんだ。
そう言った彼は、僕とのビリヤードを終えた後、車を内側から目張りをして、自ら命を絶ちます。
彼は死を吸い込みすぎたのでしょう。


海辺のカフカでも、村上春樹の死生観を感じる一文があります。
「あの頃(子供のころ)は何も考えなくてよかった。生きている限り、俺はなにものかだった。自然にそうなっていたんだ。でも、いつの間にかそうではなくなってしまった。生きることで俺はなにものでもなくなったしまった。そいつは変な話だよな。人ってのは生きるために生まれてくるんじゃないか。それなのに、生きれば生きるほど俺は中身を失っていって、ただの空っぽな人間になってたみたいだ。」
僕のとても好きなフレーズです。
これもまた、人が生きる葛藤について事細かに描写したものです。

様々な国に住み、いろいろな文化や人々に触れてきた彼だからこそ、このような簡潔かつ真理をついた言葉を生み出せるのでしょう。
私たちの生活の中に、死の塵は溢れています。
しかし、その黒い塵を追い払うほどの行為があります。

それこそが、作中で多様な描かれ方をしている性描写なのではないでしょうか。
生を象徴するこの行為に村上春樹がこだわるのは、生の対偶の関係にある死に、とても強くこだわっているからではないのでしょうか。


村上春樹はほかにも、宗教や性自認、民族文化などのテーマを取り扱うことも多くあります。
これまで紹介したその全ての集大成こそ『1Q84』にあります。
この小説は、二人の男女の視点を皮切りに、現実世界から少しだけずれたある世界を舞台に描かれるお話です。
村上春樹初心者にもおすすめです。

この話のすごいところは、最終的に5か6に増える視点で語られる群像劇のような物語を一本の小説としてまとめているところにあります。
しかも、物語としての面白さを一切損なうことも無くです。
この『1Q84』に散りばめられた小説的レトリックには息を飲まずにはいられません。

まだまだオタクとして語りつくしたいところですが、ネタバレになるので少しでも気になった方はぜひ手に取ってみてください。
文庫版も出ているので、肌に合わなければいつでも切り辞めれます。
僕個人としてはぜひ読んでみてほしいところです。


村上春樹の小説は、例外を除いてシリーズ化しているものはありません。

ではその例外とは? それこそが「羊三部作」と呼ばれるものになります。
デビュー作の『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、そして『羊をめぐる冒険』の三作です。
後に『ダンス・ダンス・ダンス』もこれに加わりますが、書き上げられた時期がかなり後となるために、『ダンス・ダンス・ダンス』は後日譚のような扱いをされることが多いです。
とはいえ、この『ダンス・ダンス・ダンス』がとても好きな僕からすれば、「羊四部作」とまとめてほしいところではあるのですがね。


『風の歌を聞け』は主人公である「僕」と、相棒の「鼠」というあだ名の男との18日間の物語です。
『1973年のピンボール』は、大学卒業後に翻訳家として生計を立てる「僕」と、相変わらずふらふらと瘋癲(ふうてん)のような生活をしている「鼠」とのパラレル形式でつづられています。

『羊をめぐる冒険』は、そんな「鼠」から送られてきた一枚の写真にうつった「羊」を「僕」が探す旅に出るという、タイトルそのまんまの物語です。
とはいえ、そのタイトルからは想像もできないほど壮大なファンタジー小説です。 それまではどこかリアル志向のシニカルな文体でしたが、この『羊をめぐる冒険』ではどこか厭世的で、死生観を強く感じる文体に変わっていきます。
村上春樹本人の変化なのでしょうか。

そして、時代は進み『ダンス・ダンス・ダンス』では「僕」がこれまで生きてきた軌跡を歩みなおすかのような追想の物語が展開されます。
もちろん、「僕」と新しく登場する個性豊かで魅力的な登場人物を交えた上でです。
特に「五反田くん」という「僕」の幼馴染の絶世の美男は嫌いな読者がいないのではないのではないかというほど、魅力的かつ人間臭く描写されているので、ぜひ彼の顔を一度は見てみたいものです。
僕はディーンフジオカさんに脳内で演じてもらっています。

『ダンス・ダンス・ダンス』は「羊三部作」に比べ、かなり長く、お世辞にも明るい話とは言えないのに、とてもスラスラと読める名作なので、こちらもぜひ読んでいただきたいです。

さいごに

死生観を扱うお話でしたので、先に「心」についてのお話を前菜としてさせていただきました。
肌に合わない人は多いですが、一度魅了されれば僕のようにその全てを買いそろえてしまうほどオタク向けな村上春樹のお話でした。
ほんの一割ほどしか書けていませんので、気が向けばまた取り上げようと思います。

それでは、またこんど!

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