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43歳、死の恐怖が消えた日。「ないものとして、ある」という発見。

【はじめに】

私はずっと、死ぬことが怖かった。 「死」そのものが怖いというより、「なくなること」が怖かったのです。 自分という意識が途切れ、存在がブラックホールに吸い込まれるようにゼロになってしまう。その虚無への恐怖が、心のどこかに常にありました。

けれど今日、43歳にして突然、その恐怖が消滅する「悟り」のような境地に辿り着きました。 宗教的な話でも、スピリチュアルな慰めでもありません。もっと物理的で、論理的な確信です。

もし、死を恐れている人や、大切な人を亡くした喪失感の中にいる人がいれば、この記録が小さな灯りになれば幸いです。

1. 「不在」という実存

多くの人は「死んだら心の中で生きる」とか「天国へ行く」と言います。でも、私の感覚はもっとリアルです。

私が辿り着いた答えは、「なくなる」のではなく、「ないことがある」という感覚です。

例えば、ドーナツの穴。「穴」という物質はありませんが、「ない」という空白が確かにそこに存在しています。 死もそれと同じではないか。 私が死んだら、私は消滅するのではなく、「ない状態」として、質量を持ってこの世界に残り続けるのです。

「不在」は、虚無ではなく、一つの確固たる存在形式です。 私は「ないものとして、ある」状態へシフトするだけなのだと気づいた時、消えてしまう恐怖が和らぎました。

2. どこにも行かない

生きているということは、肉体や理性という「皮袋(境界線)」の中に、自分をギュッと押し込めている状態です。 死ぬということは、その袋が破れることです。

境界がなくなれば、中身は世界全体に広がります。 だから、「あの世」という別の場所へ行くのではありません。 袋から出た私は、この現世の空気の中にも、宇宙の広大な虚無の中にも、等しく混ざり合います。

家族がいるリビングの空気の隙間にも、私は「不在」として鎮座し続ける。 有の世界にも、無の世界にも、境界なく溶け込んでいる。 「私はどこにも行かない。ただ、ここにある『ない』になるだけだ」 そう思えたのです。

3. 睡眠は「死」の予行演習

この考えに至って、さらに一つの謎が解けました。「睡眠」と「死」の関係です。

  • 睡眠 = 肉体という境界を保ったまま、「あるもの」として無の世界へ行くこと。(だから帰ってこれるし、気持ちいい)

  • = 境界をなくして、「ないもの」として無の世界そのものになること。(完全な融合)

私たちは毎晩、寝ることで「無」の心地よさを知っています。 死ぬことは、その命綱(肉体)を外して、完全にその心地よさと一体化するだけです。 「寝るのは気持ちいいのに、死ぬのが怖い」というのは矛盾していました。システムは同じなのです。

4. 亡き父との再会

この境地に達して、一番救われたことがあります。 それは、亡くなった父のことです。

これまでは「もういない」「遠くへ行ってしまった」と思っていました。 でも、今日の感覚で言えば違います。 父は、遠くに行ったのではありません。 父もまた、「ないものとして、ここにある」のです。

私が今いる部屋の静寂の中に、空気の重みの中に、父は確かに存在しています。 ただ、私たちが「有るもの側」にいて、父が「無いもの側」にいるだけ。 同じ場所に、違うレイヤー(層)で同席しているのです。

【おわりに】


いま、私の心には不思議な落ち着きがあります。 「生きている私(有)」と、いずれ訪れる「ないものとしての私(無)」が、自分の中で静かに融合している感覚です。

死は終わりでも、消失でもありませんでした。 境界を解いて、世界そのものになる自由な解放でした。

この恐怖のない心で、これからの人生を、思い切り味わい尽くそうと思います。 境界がある今だからこそ感じられる「生」というエンターテインメントを。

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