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Math Note Ⅰ 第2話

2 降べきの順――最も大事なこと

 息ができないほど走って家に着いた。玄関に入り、上がりかまちに腰を下ろし、とりあえず呼吸を元に戻す。心臓はまだ走り続けている。
 とんでもないことをした。鈴木をいきなり殴って逃げ去ってしまった。今日は――いや、昨日からずっとイライラすることばかりが続いて、もう僕は限界だった。「黒ひげ危機一髪」に例えるなら、樽の中にいる僕にいろんな人間や出来事が無邪気にナイフを突き刺してきた感じだ。そして、最も刺してほしくないところに鈴木が最後のナイフを突き立てた。
 
 靴を脱ぎ、洗面所で口をゆすぐ。何か飲もうとして冷蔵庫を開けると、ジャムの横に一冊のノートが置いてあった。キンキンに冷えたその白いノートを取り出すと、「Math Note」と書いてある。誰のノートだろう。いや、そんなことより、なんでこんなところでノートが冷やされているんだ。
 
 テーブルに座り、グラスに入れた麦茶を一気に飲み干した。ふうっとため息をついたとき――それはそんなに大きなため息でもなかったが――ノートがパラパラっとめくれ、ページが開いた。蛍のように、ぼんやりと光った気がした。
 
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〈降べきの順・昇べきの順〉
 
多項式  $${ 3x^2-4x^3-1+5x}$$ を
降べきの順に並べると→   $${ -4x^3+3x^2+5x-1}$$
昇べきの順に並べると→   $${-1+5x+3x^2-4x^3}$$
 
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 文字式のうち、数や文字の積だけで成り立っているものを単項式、複数の単項式の和で表されるものを多項式と呼ぶ。たとえば、$${-4x^3}$$ は、$${-4・x・x・x}$$ のように数と文字の積だけでつくられているので単項式だ。数のみの 3 や文字のみの $${x}$$ なども単項式になる。
一方、 $${ 3x^2-4x^3-1+5x}$$ は、 $${ (3x^2)+(-4x^3)+(-1)+(5x)}$$ という4つの単項式の和で表されるため、多項式である。多項式の中のそれぞれの単項式を「」と呼ぶ。
 多項式の次数は、それぞれの項の中で最も高い次数とする。たとえば、$${ 3x^2-4x^3-1+5x}$$ は、各項の次数が 2、 3、 0、 1 だから、多項式全体の次数は「3」となる。これをわかりやすくするために、項の次数が高いものから並べ直したものを「降べきの順」、逆に次数が低いものから並べ直したものを「昇べきの順」と呼ぶ。このように整理すると見やすく、式の性質をとらえやすくなるんだ。
 
 ……だから何だ。
 
 昨日学校で返された模試の成績は最低だった。夕食後、部屋に戻ろうとしたら、父が「大事な話がある」と引き留めた。聞いてみたら、離婚を考えているというような話だった。そんな話は今聞きたくないとテーブルを叩きつけ、階段を駆け上った。部屋に入ったら、机の脚に左足の小指をぶつけた。
 今日は一時間目から体育の時間の前に急に腹が痛くなってトイレに行った。少し遅れてグランドに行くと、機嫌の悪い馬場に怒鳴られた。教室では、馬場の機嫌が悪いのは嫁さんに逃げられたからだという話で盛り上がっていた。僕は笑えなかった。いや、昨日の話がなかったとしても笑う気にはなれない。みんな現実を直視するのが怖くて、真実かどうかも疑わしい他人の噂話で現実逃避しているだけじゃないのか。
 昼休みは食堂に行ったが、財布の中にお金が入っていなかった。結局何も食べられなかったので、授業の内容もロクに頭に入らなかった。帰りに鈴木がまた馬場の話を持ち出した。空腹でイライラしていたので、鈴木が「離婚」という言葉を口にした途端、反射的に鈴木を殴ってしまった。気づいた時には遅かった。そして、逃げ出してしまった。
 
 いろいろと嫌なことや不運が続いたが、その中で僕にとって最も「次数の高い」ことは何だろう。足の小指や先生のこと、食堂のことはもういい。成績は自業自得だからこれから頑張るしかない。両親の離婚の件、それが一番僕の心を大きく揺さぶっている。昨日は話を聞く気になれず部屋に逃げてしまったので詳しい状況はわからない。確かに、以前も一階から言い争うような大きな声が聞こえてきたことは何度かあったが、そんな深刻な状態だとは思わなかった。家では普段から部屋にこもることが多かったけど、平凡な三人家族の関係はいつまでも続くと思っていた。その日常が崩壊するなんて想像もできない。これが最も「次数の高い」問題だ。

 では、今僕にできることは何かあるのか。これは逆に次数の低いほうから「昇べきの順」で考えてみよう。簡単なことから手をつけるのがよさそうだ。
 
 まずは――何か食べよう。
 
 戸棚にポテトチップスを見つけた。取り出して袋を開けて一気に食べた。もう一度麦茶を飲み干し、ふうっと大きく息を吐いた。ああ、そういえば鈴木には申し訳ないことをした。あいつが悪いんじゃない。明日謝らないと。でも許してくれるだろうか。まぁ、『まずはペンを動かせ』だ。
 
 少し気持ちが落ち着いて、ふと気づいたが、さっきのノートがどこかに消えていた。当たり前だが、冷蔵庫の中にもなかった。
 

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