Math Note Ⅰ 第3話
3 展開――順番が大事
「ふう、疲れたー」
パートから帰って一息。晩御飯の準備をする前にコーヒーでも飲もう。誰かにもらったドリップコーヒーの袋を開け、誰かにもらったマグカップに載せ、熱湯を少し注ぐ。この最初の二十秒の香りがたまらなく好きだ。弘幸はもう帰ってるみたいだから、部屋で勉強してるのかな。それにしても、昨日は急に隆志が離婚だなんてい言うものだから、あの子、さぞショックだったに違いない。
隆志は今、化粧品メーカーで営業の仕事をしている。でも先月会社で人事課長に呼び出され、前年度の業績についてグチグチ言われた後、今年度の人員削減計画についての説明を受けたらしい。直接的に隆志の名前がリストに入っているというようなことは言われてないみたいだけど、状況的に、いわゆる「肩たたき」だと思う。次の冬には弘幸の大学受験も控えている。経済的な問題が一番心配だった。それから私たちは何度か話し合い、時々けんかもしたけれど、これと言って良い案は思いつかなかった。私はやむを得ず、十八年連絡を取っていなかった実家の父に電話をかけた。
父は勝ち誇ったように私を罵った。私は黙って聞くしかなかった。しかし、最終的に父は、経済的な援助をしない訳ではないと言った。その援助と引き換えに父が出した条件は、隆志との離婚だった。
晩御飯のアイデアが思いつかないので、リビングの本棚にある料理本を取ろうとしたとき、その横にあった薄い本が床に落ちた。いや、本じゃない。それは一冊の白っぽいノートだった。表紙を見たところ数学のノートのようだけど、弘幸のノートかな。テーブルに戻り、料理本とノートをマグカップの横に置いた。
「ごぁ」
ヒキガエルのような音が出てしまった。なんでコーヒーを飲んだだけなのにゲップが出るのだろう。誰もいなくてよかった。そんなに勢いよくしたつもりはないけれど、ノートがパラパラと勝手に開いた。そしてそのページが柔らかく光を帯びたように見えた。
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〈問〉$${(x+2)^2(x^2-2x+4)^2}$$ を展開せよ。
〈解〉
$${ (x+2)^2(x^2-2x+4)^2 }$$
$${ =\{ (x+2)(x^2-2x+4) \}^2 }$$
$${ =(x^3+8)^2 }$$
$${ =x^6+16x^3+64 }$$
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高校生の時にやったことあるなぁ。
「展開する」というのは、「かっこをはずす」っていう意味だ。この問題は、
$${(x+2)(x+2)(x^2-2x+4)^2(x^2-2x+4)^2}$$
のかっこを全部はずして計算しろって意味だけど、何も考えずに最初の二つのかっこを展開して
$${(x^2+4x+4)(x^2-2x+4)^2(x^2-2x+4)^2}$$
とやってしまうと、この先の計算がややこしくなってしまう。
そこで、かける順番を変えて
$${(x+2)^2(x^2-2x+4)^2 =(x+2)(x^2-2x+4)・(x+2)(x^2-2x+4)}$$
という風に考えれば、前半も後半も公式を使って
$${(x+2)(x^2-2x+4)=x^3+8}$$
と簡単な式になるから、あとは $${(x^3+8)^2}$$ を計算するだけ。これなら中学生でも解ける。
複雑な式の展開の時は、展開する順番を考えるのが大事なのよね。
……だから何なの。
十八年前、私たちは結婚を反対されていた。地元で名士と呼ばれる父は、当時私に何度も見合いをさせようとしたけれど、私はそれらを振り切って、大学時代に知り合った隆志を選んだ。そして、二人だけでささやかな結婚式を挙げた。おなかの中にはすでに弘幸がいた。
そうか。展開する順番をちゃんと考えないと、かえって目的が遠のいてしまうんだ。あの時父の反対を振り切って私たちが誓ったのは、何があっても弘幸を幸せにするということだ。最近の弘幸は受験勉強でナーバスになっている。今の弘幸に必要なのは、大学入学のための資金とか、そんな先の問題じゃなくて、安心して勉強に打ち込める環境だ。今、隆志と私が協力して、弘幸を応援してあげないといけないのに、離婚をするなんて言い出したら、勉強どころじゃなくなって何もかもうまくいかなくなってしまうじゃない。隆志のバカ!
今晩、落ち着いて隆志ともう一度話し合おう。弘幸のための最善の方法をいっしょに探そう。
料理本をパラパラめくってみたが思いつかず、カレーを作ることにした。本を棚に直そうとしたとき、あの白いノートのことを思い出したけれど、いつの間にかどこかに消えてしまった。あのノートがなくて弘幸は大丈夫なのかな。まあ長らく本棚に眠っていたようだから、大したものではないのかもしれないけど。
