Math Note Ⅰ 第7話
第2章 集合と命題
7 命題と真偽――くよくよ考えても
喫茶店を出た。六時過ぎだ。仕事を終えるにはいい時間だがまだ明るい。五月になって日が暮れるのが遅くなったな。会社に電話してそのまま帰宅しようか、いや、やっぱり会社に帰って今日の外回りの報告を部長にしたほうがいいんじゃないか。うーん、どうしよう。
結局無難に会社に戻ることにした。
会社に着くころにはもう日が暮れていた。営業部のフロアに戻ると、もう部長は帰っていて、他の社員もまばらだった。やっぱり直帰すればよかった。
鞄から営業先に見せる資料の束を取り出し、ぼんやり眺めながら一日を振り返っていた。ああ、今日も一件もいい話がなかった。俺はこのまま本当にリストラされてしまうんだろうか。
資料の中に白いノートが挟まっていることが判明した。やばい、あの喫茶店で見たノートをうっかり鞄の中に入れてしまったらしい。ノートを手に取ろうとしたが、うまく力が入らずにするりと手から離れて床に落ち、ページが開いた。足元が少し明るくなった気がした。
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〈命題と真偽〉
真か偽かがはっきりする文を「命題」という。
真…正しい(100%正しいときは「真」)
偽…正しいとは言えない(たとえ1つでも例外があれば「偽」)
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「俺は身長が百八十センチだ」という文は、本当かどうか調べてみればわかるので「命題」だが、「俺は背が高い」という文は命題ではない。たとえば、小学生の中では百六十センチもあれば背が高いかもしれないが、NBAのチームに入れば、百八十センチでも背が高いとは言えないかもしれない。そのように、考え方や周囲の環境などによって本当かどうかが変わるようなものは命題とは言わない。
「真」とは「正しい」という意味だが、数学では百パーセント例外なく正しいものを「真」という。一つでも例外があるのであれば、それは「偽」という。たとえば「哺乳類は卵を産まない」という命題は「偽」だ。多くの哺乳類は確かに卵を産まないが、例外としてカモノハシがいるからだ。だから、その命題が偽であることを言いたければ、そうでない例を一つ挙げればよい。そのような例のことを「反例」という。つまり、今の話でいえば、「哺乳類は卵を産まない」という命題は「偽」で、その反例は「カモノハシ」だ。
……だから何だ。
「俺はリストラされる」は真の命題なのだろうか。今の状況を考えれば、その可能性は高いだろう。だがまだ決まったわけじゃない。もしかしたらこれから急に業績が上がるかもしれないし、何か他にいいことがあるかもしれない。だから真とは言えないだろう。
では、「俺がリストラされると典子と離婚しなくてはならない」――これはどうだ。確かにそうなると、経済的にはピンチになるし、典子の父親に典子と弘幸を奪われてしまうかもしれない。だが、これもまだわからない。もしかしたらこの会社を辞めたらもっと条件の良い就職先がすぐに見つかるかもしれないし、典子の父親が考えを変えるかもしれない。だからこれも真とは言えない。
いや、そもそもこんなもの、「命題」ですらないんじゃないか。
そうだ。まだ決まってもないことをくよくよ考えても意味がない。
電話が鳴って我に返った。受話器を取ると、今日最後に訪問したドラッグストアの店長からで、明日の朝もう一度来てほしいということだった。お礼を言って受話器を置いた。何だろう。もしかしたら、注文があるのかもしれない。
手帳に時間と店の名前をメモして鞄に入れ、会社を出た。帰りの電車の中であのノートのことを思い出した。机の上に置いたまま出てきてしまったかな。まあいい。それは明日にしよう。これから家に帰って典子と昨日の続きを話し合わないと。そう、「まずはペンを動かせ」だよな。
