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Math Note Ⅰ 第5話

5-1 対称式――下準備すること

 私はこの川上家の長男として生まれた。弟二人は自由奔放な人生を歩んでいるが、私の七十二年間の人生の大半はこの家を守るために捧げてきた。それが私の務めであった。私は東京の大学を卒業し、銀行に就職した。二十六の時に見合いをし、四歳下の聡子と結婚した。同時に銀行員を辞め、実家に戻って家業の酒蔵を継いだ。なかなか子供ができなかったが、私が三十になった時、典子が生まれた。典子は私と同じ大学に進学した。成人式を終えた頃から、家に多くの釣書が届いたが、典子はことごとくそれらを断った。そして、卒業して二年も経たないうちに、大学で知り合ったという男と結婚するといって実家に帰ってきた。私は決して許さなかったが、典子は私の忠告を無視して東京に帰り、その男と結婚した。その後は聡子宛に年賀状を寄越す程度でほとんど音信不通だったが、今になって典子は私に助けを求めてきた。
 聡子は「力になってあげて」と言うが、私は反対だ。好き勝手に生きると決めて、都合が悪くなった時だけ頼ってくるなど言語道断だ。しかし私も父親として、川上家の長男としての責務がある。典子がその無責任な男と縁を切り、家に戻ってくることを条件に援助すると伝えた。
 
 新聞を読みながら茶を飲もうとしたところで手が滑り、誤って湯呑を倒してしまった。聡子を呼んだが返事がない。買い物にでも出かけたのであろうか。仕方なく腰を上げ、洗面所にタオルを取りにいった。棚に重ねられたタオルを取ろうとすると、タオルの間に一冊のノートが挟まれていた。数学のノートのようだが、典子の学生時代のものを聡子がどこかで見つけて、懐かしんで読んでいたのだろうか。
 何気なくタオルとともにノートを持って居間に戻り、こぼした茶をタオルで拭き取った。その動作のせいとは思えないが、ノートがパラパラと開いた。何故かそのページが少し輝いたような気がした。
 
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〈問〉$${x=\dfrac{1}{\sqrt{5}+2}}$$,$${y=\sqrt{5}+2}$$ のとき, $${x^2+y^2}$$ の値を求めよ。
 
〈解〉$${x=\dfrac{1}{\sqrt{5}+2}・\dfrac{\sqrt{5}-2}{\sqrt{5}-2}=\sqrt{5}-2}$$  より
 $${x+y=\sqrt{5}-2+\sqrt{5}+2=2\sqrt{5}}$$
 $${xy=(\sqrt{5}-2)(\sqrt{5}+2)=5-4=1}$$
だから
 $${x^2+y^2=(x+y)^2-2xy}$$
 $${=(2\sqrt{5})^2-2・1}$$
 $${=20-2=18}$$

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 $${x^2+y^2}$$ や $${x^3+3xy+y^3}$$ のように、$${x}$$ と$${y}$$ を入れ替えても式の意味が変わらない式を「対称式」という。$${x+y}$$ や $${xy}$$ は最も単純な対称式なので「基本対称式」と呼ばれる。すべての対称式は、基本対称式の組み合わせで表すことができる。たとえば、$${x^2+y^2=(x+y)^2-2xy}$$ などがそうだ。
 対称式の値を求めるときには、$${x}$$ と$${y}$$ の値をそのまま式に代入するのも悪くはないが、先に基本対称式である $${x+y}$$ と $${xy}$$ の値を求めておくと、その後の計算がとても楽になることが多い。この問題の解答も、そういう考えで、先に $${x+y}$$ と $${xy}$$ を計算している。
 
……だから何だ。くだらん。
 
 今回の件に関しては、そのような「下準備」は不要だ。私は典子のために、孫の弘幸のために、川上家のために、直接言うべきことを言い、やるべきことをやる。典子についても同様だ。問題の根源を断ち切って、弘幸が安心して受験に専念できるよう、素早く対処するべきだ。多少ギクシャクするのは仕方がない。ダラダラと迷うことは誰のためにもならない。
 
 濡れたタオルを洗濯かごに入れて、再び居間に戻り、腰を下ろした。座卓の上に置いてあったはずのノートがどこかに消えていた。少し探したが、すぐにあきらめて新聞を広げた。

5-2 よく似た二人

 昔は家の近くに小さな食料品店が一軒あるだけだった。細い道路の前にあって駐車場が一台分しかないから、三年前までは雪の日も十五分ほど歩いて買い物に行っていた。
 近くに大型ショッピングモールができて本当に良かった。雨の日もちょっとたくさん買い物したいときも、車で行って好きなだけ荷物を積み込める。天井の高い開放感のあるメインストリートの、キラキラした雰囲気も好きだ。若い人もいっぱいいるし、いろんな店を見て歩くだけでも気持ちが若返る。以前の買い物は私にとって「つらい仕事」だったけど、今は「ワクワクする趣味」になった。
 
 そういえば、出かける前に洗面所で見つけたあのノート、なんであんなところにあったのだろう。典子は出て行ってもう二十年近くなるから、昭雄さんが典子のノートをどこかで見つけて読んでいたのかしら。
 
 あの $${x+y}$$ みたいな式、なんて言ったかしら。忘れてしまった。学生の頃はなんでこんな面倒くさいことをしなくてはいけないのかって思ってたけど、今ならよくわかる。掃除でも料理でも何でもそうだけど、ちょっとした手間をかけて準備をしておくと、後でとても楽になったり、すごくおいしくなったりするのよね。「今日の一針、明日の十針」とはよく言ったものね。
 
 典子から急に電話がかかってきて、昭雄さんも怒ったようにふるまっていたけど、内心嬉しかったんじゃないかしら。でも十八年前のこともあるし、父親らしいところも見せないといけないから、あんな風に言っちゃったんだと思う。典子ももう少し段取りを踏んで相談しないとね。そういう意味では、典子も昭雄さんとそっくり。ここはひとつ、私が二人の段取りを考えてあげようかな。
 
 それにしてもあのノート、私どこに直したのかしら。帰ったら昭雄さんに聞いてみよう。覚えていたら、だけど。

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