Math Note Ⅰ 第10話
10 背理法――嘘をついても
声をかけようとしたが、弘幸は部屋に戻ってしまった。できるだけ弘幸のことを考えて丁寧に話したつもりだったけど、リストラ、お金、離婚という話を立て続けにされたら、ショックを受けるのも無理はない。ああ、私も隆志と同じことをしてしまった。「昨日のお父さんの話は全部嘘だから、心配しないでね」とか、うまく言えばよかったかな。
少し冷めたコーヒーを飲みながらテーブルの上に置いてある新聞を手に取ると、その下に白いノートがあることに気づいた。あ、これ昨日見た弘幸の数学のノートじゃないの?こんなところにあったんだ。
「へっくしょい!」
鼻に埃か何かが入ったのか、コントのようなくしゃみをしてしまった。誰もいなくてよかった。ノートのほうに向かってくしゃみはしなかったけれど、ノートが勝手にパラパラとめくれた。そして、開いたページがまた少し光って見えた。
---------------------------
〈問〉 $${\sqrt{2}}$$ が無理数であることを用いて、次の命題を証明せよ。
$${1+2\sqrt{2}}$$ は無理数である。
〈証明〉 $${1+2\sqrt{2}}$$ が無理数でないと仮定すると
$${1+2\sqrt{2}=r}$$ ( $${r}$$ は有理数)
と表される。このとき、
$${2\sqrt{2}=r-1}$$
$${\sqrt{2}=\dfrac{r-1}{2}}$$
ここで、$${\dfrac{r-1}{2}}$$ は有理数であるが、
これは $${\sqrt{2}}$$が無理数であることに矛盾する。
したがって、$${\sqrt{2}}$$ は無理数である。
---------------------------
これは「背理法」だ。その命題が成り立たないと仮定すると、どこかで矛盾が生じる。だからその命題は成り立つ(真である)、という証明のしかただ。
「有理数」というのは(整数)÷(整数)で表される数のこと。イメージとしては分数みたいな数のことだけど、整数や有限小数、循環する無限小数なども(整数)÷(整数)で表される、つまり有理数だってことが知られている。一方、$${\sqrt{2}=1.414213…}$$ や $${\pi=3.141592…}$$のように、循環しない無限小数で表される数もあって、それらは絶対に(整数)÷(整数)の形では表されない。このような数を「無理数」という。だから「有理数」であり「無理数」でもある数というのは存在しない。
この証明では、もし命題が成り立たない、つまり $${1+2\sqrt{2}}$$ が無理数でないと仮定すると、最終的には$${\sqrt{2}}$$ が有理数になってしまって前提と矛盾する。だからやっぱり $${1+2\sqrt{2}}$$ が無理数でないといけない、という話になっている。
……だから何なの。
そうか。正しいことを否定していると、どこかで矛盾が生じちゃうのよね。結局取り繕った噓をついてもどこかでバレるし、もし隆志が本当にリストラになって、最悪の事態になってしまったら、その時弘幸は絶望するしかない上に、誰のことも信じられなくなるだろう。だから今日のことはあれでよかったんだ、と思うことにしよう。
でも、弘幸はやっぱりショックだっただろうなぁ。もう少しマシな話し方があったんじゃないだろうか。
コーヒーを飲み終わり、マグカップをさっと洗った。タオルで手を拭いて振り返ると、テーブルの上にあったノートがまた消えていた。
