Math Note Ⅰ 第4話
4 因数分解――最も小さいものを中心に
「田中さん、ちょっといいですか」
今日も朝から年下の人事課長に呼び出され、また例の計画とやらを説明された。こちらを気遣っているのか、申し訳なさそうな態度が余計に俺の心を擦り減らす。机に戻ると、にぎやかに話し合っていた同僚の会話がスッと止み、気まずい空気が流れた。次に部長に呼び出され、新商品の販促の進捗を報告させられた後、報告書にまとめるよう指示された。それなら最初から報告書でいいじゃないか。その後、得意先をもう一度回るよう指示され、あちこちで頭を下げまくって、最後のドラッグストアを出た。長い一日だった。道路を挟んでちょうど向かい側に古いアパートがあり、その一階にある昭和の空気が漂う喫茶店が目に留まった。こんなところにこんな店があったかな。喉も乾いていたのでとりあえず入ってみることにした。
扉を開け、一番奥の席に座った。工藤静香の『MUGO・ん…色っぽい』が流れている。これはギリギリ昭和か。
立てかけてあるメニューを手に取った。二つ折りになった焦げ茶色のビニールカバーを開くと、なぜか白い表紙のノートが挟まっていた。「Math Note」と書かれている。もしかしたら少し前に受験生がこの席でノートを広げ、忘れていったのかもしれない。
シンプルにアイスコーヒー、いや、ソフトクリームのたんまり乗ったコーヒーフロートも捨てがたい。うーん、どっちにしよう。迷っていると女性の店員が近づいてきた。
結局無難なアイスコーヒーを頼んでしまった。
店員がアイスコーヒーを持ってきて、フレッシュとミルクと伝票を机の上に置いたとき、横に置いていた白いノートが勝手にパラパラと開いた。店員はそれには気づかなかったのか関心がなかったのか、そのままカウンターのほうに戻っていった。薄暗い店だったが、ほんの一瞬だけ、テーブルの上が仄かに明るくなった気がした。細いストローでアイスコーヒーを吸い込みながら、そのページを眺めてみた。
---------------------------
〈問〉$${2x^3+x^2y-4x^2-4y}$$ を因数分解せよ。
〈解〉$${2x^3+x^2y-4x^2-4y}$$
$${=y(x^2-4)+2x^3-4x^2}$$
$${=y(x+2)(x-2)+2x^2(x-2)}$$
$${=(x-2)(y(x+2)+2x^2)}$$
$${=(x-2)(2x^2+xy+2y)}$$
---------------------------
学生の頃が懐かしいな。「因数分解」とは「展開」の逆、単純に言えば「かっこでくくる」という作業だ。この問題のように二種類以上の文字がある多項式の場合、まずは「次数の低い文字について整理する」というのが常套手段だ。問題の式は、 $${x}$$ について着目すると3次式、$${y}$$ について着目すると1次式だから、次数が低いほうの「 $${y}$$ について整理する」と道が開けることが多い。実際に、2行目のように、$${y}$$ のある項とそうでない項にわけてみる。$${y}$$ のある項を $${y}$$ でくくると$${y(x^2-4)}$$ となり、さらに $${x^2-4}$$ の部分は $${(x+2)(x-2)}$$ と因数分解できる。一方、後半の $${y}$$ のない部分も、$${2x^2}$$ でくくり出すと $${2x^2(x-2)}$$ となり、どちらにも共通因数の $${(x-2)}$$ が含まれていることがわかる(3行目)。あとは解答の通りだ。
……だから何だ。
典子とは大学時代のテニスサークルで知り合った。彼女は新潟の裕福な家庭の娘で、俺と二人で実家を訪ねた時は、父親は俺のことを認めなかった。しかし典子は俺と東京で暮らすことを決め、その後弘幸が生まれた。
今の俺は、典子の父親の予言通りの不甲斐ない夫だ。くそっ、俺には家族を幸せにする力がないのか。
いや待てよ、次数の低い文字について整理――今一番考えないといけないのは俺のことではなく、家族で最も年齢の低い弘幸のことじゃないのか。俺がリストラされるとか、俺たちが離婚するとかよりも、まず弘幸のことを中心に考えるべきだ。それなのに俺は昨日、弘幸に自分たちの釈明をすることしか考えていなかった。あいつも受験でピリピリしてる時期なのに、申し訳ないことをした。
ぼんやり外を眺めて物思いに耽っていたが、ストローがズズッと音を立てたので我に返った。立ち上がって伝票を手に取った時、テーブルに広げていたあのノートがなくなっていることに気づいた。もしかしたら、知らないうちに店員が片付けてくれたのかな。
帰ったら弘幸に謝ろう。そして、大丈夫だから心配するなと言ってやろう。いや、もう遅いか。でも「まずはペンを動かせ」って、高校の時の変な数学の教師が言ってたもんな。
