宛名のない10分
2026年08月03日 455日目
出発の30分前までに、荷物を預けなければならない。
そう言われて、僕は素直に列に並ぶ。
飛行機はまだ来ていない。
滑走路にも、僕が乗るはずの機体は見当たらない。
締め切りだけが、機体よりも先に到着している。
間に合うために、早く着く。
この矛盾を、誰も矛盾と呼ばない。
羽田空港の国内線で、手荷物を預ける締め切りが9月から10分早まる。
出発の遅れが増えているためだという。
定時に飛ぶための10分を、乗客が先に出す。
熊本地震から7日目、首相が被災地に入った。
避難所を回り、自治体の要望を聴く。
遅れを取り戻す動きは、たいてい身体を運ぶことから始まる。
ブラジルでは、80歳のルラ大統領が4期目への出馬を表明した。
相手はボルソナロ前大統領の長男。
残り時間が短いほうの人が、もう一度時計を巻き戻そうとしている。
三つに共通しているのは、締め切りだ。
締め切りとは、終わりの時刻のことではない。
誰かの余白を、先に徴収するための装置である。
E・P・トンプソンは、工場の時計が農村の時間を作り変えた過程を書いた。
仕事が終われば一日が終わる時間から、鐘が鳴れば一日が終わる時間へ。
人は時間の中で働くのをやめ、時間に合わせて働くようになった。
ミヒャエル・エンデの『モモ』では、灰色の男たちが時間の貯蓄をすすめる。
節約したぶんは銀行に預けられ、利子がつくと説明される。
預けた人は、二度とその時間を見ない。
カウンターの奥では、預けられた鞄が黒いベルトに乗って、ひとつずつ壁の穴へ吸い込まれていく。
あれがどこを通っていくのか、毎回気になるのに、毎回すぐに忘れる。
10分も、たぶんどこにも貯まっていない。
定時率は上がるだろう。
数字は改善する。
改善したぶんの遅れは、カウンターの前の列に移っただけだ。
指標というのはよくできていて、痛みを枠の外へ押し出せば、枠の中はきれいになる。
時短を売る商品が本当に売っているのは、短くなった時間ではなく、前倒しされた待ち時間のほうだ。
道元は「有時」で、時間を持ち物のように扱う考え方そのものを退けた。
時が存在であり、存在が時である。
同じ書物の別のところでは、薪は灰になるのではなく、薪は薪、灰は灰なのだと言う。
前と後ろは、そのつど断ち切られている。
だとすると、僕が空港で差し出しているのは時間ではない。
僕自身の一部を、少し早めに置いてきている。
そういうものらしかった。
仕方がないので、僕は目覚ましを10分早めた。
存在と時間の問題は、だいたい枕元で片がつく。
厄介なのは、前倒しがそこで止まらないことだ。
早く動けば、その動きが別のどこかに新しい遅れを作る。
首相が被災地に立てば、現地の誰かがその日の段取りを一つ後ろへずらす。
ルラが4度目に立てば、次の世代の順番が4年ぶん後ろへずれる。
しかもその次の世代というのが、前の大統領の長男なのだった。
取り戻された時間は消えたわけではない。
宛名を書き換えられて、どこかの家のポストに入っている。
締め切りを早めること自体は、悪くない。
ずるいのは、その10分を誰から引くのかを言わないまま、定時率だけを掲げることのほうだ。
差出人の欄が空白の請求書を、僕たちは黙って受け取りすぎている。
次の出発の30分前にも、僕はやはり列に並んでいる。
預けるものは、すべて預けた。
手元に残った10分は、まだ誰のものでもない顔をして、鞄の隅で静かにしている。
出典:
・羽田空港 荷物預け入れ締め切りを出発30分前に 出発の遅れ増え(NHK)/2026年08月03日
・高市首相、熊本被災地を訪問 被災者・自治体の要望聴取(時事通信)/2026年08月03日
・左派ルラ氏、4期目へ出馬表明 ボルソナロ家と対決―ブラジル大統領選(時事通信)/2026年08月03日
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