日本人には「平和が何より主義」がマッチしている ~「平和>正義・秩序」主義~
日本国憲法が改正されずに78年間世界遺産のごとく維持存続できたのは、国民の積極的かつ意識的な守護があったからではない。平和主義に対する日本人の自覚のなさや認識の曖昧さがかえって奏功したといえる。
日本人は敗戦国でかつ唯一の被爆国として、無意識の罪悪感にとらわれて憲法第9条(平和主義)にこだわり続けている。無意識のレベルだからそう簡単に変えることはできない。政治家が改憲を推進しても、国民に憲法9条を捨てさせることは難しい。日本人を無意識のうちに呪縛している罪悪感に反するからだ。
そもそも戦争の放棄(第9条①)については、いわゆる「戦争」(〇〇戦争と名のつく)および「戦争の類似行為(一部の軍部の武力行使や脅して言うことをきかすこと)」さえをも禁じ、その結果として軍隊を持たず、戦う権利も否定する(第9条②)と完全なる平和主義を唱えるはずだった。
しかし、制定過程の中でマッカーサー以外のGHQ幹部の認識により「まるごしの平和国家」など国際法上あり得ないとして、「正義と秩序を基調とする国際平和」を誠実に追い求めるという理念と「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する」という文面を付け加えた。
この2文が何を意味するかは、「対立する紛争国家間が一気にその解決を図るための手段として戦争に訴える」(つまりはロシアのウクライナ侵略の戦争のような)やり方はダメで、「そのための軍事力も戦う権限も持ってないよ」という解釈ではある。まあ、侵略戦争は放棄したし、侵略のための軍事力や交戦権は持たないよ、という多くの人が考えている消極的平和主義である。
だから、前文第二段の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(つまりは正義や秩序維持のためといった大義名分のために戦うのではなく、何より平和であることが大事)と宣言したはずなのに、第9条①に付加した文章によって「国際平和のベースには正義や秩序の維持があってこそだ」(正義の実現や国際秩序の維持が果たされてはじめて国際平和とよべる)としたことで、「正義の戦争(報復)」や「国際秩序のための戦争」など何でもありということになる。
もっとも、戦争の「放棄」というのであるから持っているものを捨て去ることになる。上述の解釈では「侵略戦争」を捨て去るのであって、「自衛戦争」は維持しているという解釈は成り立つが、そもそも「国際法上侵略戦争はどの国も持つことができないことになっている。持つことができない戦争を捨て去ることは論理上できないことになる。エアー・アバンダンなど無意味である。
ならば、各国が保持できるとされる「自衛戦争」をも放棄したものと解釈するのが国語として正しい。
そう考えれば、②「前項の目的のため、戦力を持たないし、交戦権も否認する」とのつじつまもあう。無意識のうちに罪悪感の呪縛につきまとわれている日本人にとっては、欧米のような「正義や秩序のための平和主義」より「何よりの平和主義」「平和ボケと言われようが、やっぱり平和が何より(平和的生存権)」というのが無意識に落ち着くのである。ウクライナの市民やガザ地区の市民の身になってみればよくわかると思うが・・・。「正義」や「国際秩序」を振りかざして言うことをきかせようとする国の真の被害者はいつも市民なのだから。
<参考>
・柄谷 行人『 憲法の無意識』岩波書店
・朝日新聞 憲法9条「変えないほうがよい」56% 朝日世論調査
https://digital.asahi.com/art.../photo/AS20250423002216.html
