《私は夫が分からない》短編小説
※むちゃくちゃフィクションです。
『温室』―私は夫がわからない―
作 きじ あゆこ
手を取り合った。子どもが生まれた。家を建てた。
家の中に、花を飾った。
全てがそろった。
私は、とても幸せ。
私は夫がわからない。
夫は優しくて、努力家。
文句のつけようがない。夫も、私に何も文句をつけない。
結婚してからというもの、私は間違えてばかりいる。
間違えるたびに、息をすることを忘れてしまう。
夫は一度も間違えたことがない。息の仕方を教えるように、私の背中をさすってくれるのだ。
だから私は私をあきらめて、私の意志で夫についていくことにした。
私は夫がわからない。
夫は私が間違えても、何も言わない。
引っ越してきたご近所さん同士のトラブルに巻き込まれても、子どもの喧嘩を止められなくても、何も言わない。
考え事をしていたら、玉ねぎを細かく切りすぎてしまった。私は小さくむせて、せき込んだ。
スマホの通知音が鳴る。すると、ふっと呼吸が帰ってきた。肺が広がる。「いいね」が来た。
私は夫がわからない。
私が、どんな夏服がいいのか尋ねても「君の好きなものを着なよ」と答える。
たとえ好みを間違えても、何も言わない。
近所の奥さんは、家族とうまくいってないらしい。相談事の通知音が鳴る。
「すこし歩み寄ればいいのに」と喉まで出かかった言葉を、余計なお世話と胸の内にとどめた。
人には人の事情がある。私は運が良かっただけなのだ。
私は夫の優しさの温室で、大事に育てられる植物のよう。
何も言わずにただ咲いていればいい。
でもやっぱり私は人間だから、夫の好きなものをこの手で用意したい。料理も、お酒も、服も、部屋も。
夫が家に帰ってきたとき、夫の「好き」で満たしてあげたい。
私は、私の「好き」が何だったか、もう覚えていない。
私は私がわからない。
以前は、外国のポップスを聴いていた気がする。
今は、子どもと「みんなのうた」を唄う。
誰かに注意されたわけじゃない。私が飽きてやめただけ。
あの奥さんは陽のあたる庭で、流行している、たくさんの歌を口ずさむ。
元気になってよかった。いいことがあったのかもしれない。
私はひたすら、子どものあとを追いかける。
夫と私の、唯一の絆。子供と一緒に汗をかく。
他に、何もすることが思いつかない。
私は家じゅうを掃除する。埃の一つも落とさないように。
いつかのように間違えて、もうこれ以上むせてしまわないように。
家族の帰れる家にすることが、私の役目なのだ。
2階の窓を拭いていると、周りの家が見渡せた。
どこのガレージも、草が伸び放題だ。最近暑くて、ぐんぐん伸びてしまう。
仕方がない。みんな忙しくて、手が回らないのだと言いきかせながら、勝手に口の端が上がる。
うちはそもそも植物を植えることを選択しなかった。その選択をしたのは夫だったか、私だったか。
私は毎日、何種類も食事を作る。それが私のできる最大の愛の表現だと思う。
努力をこれでしか、表せない。
また、作りすぎてしまった。
夫は仕事が忙しい。
私たちのために外で戦っているのだから。
家に帰った夫は、「まいったよ」と少し笑って、それ以上は何も言わず、眠りにつく。
とても疲れているようだ。
私は眠っている夫に「ありがとう」と呟いて、布団をかけなおす。
外ではどこかの家で、子どもの泣きじゃくる声が聞こえてきた。うちは、とても静かだ。
ここはなんて整った、美しい温室だろう。
手を付けられなかった食事を見つめる。
子どもと私だけでは、明日までには食べきれない量だ。
私は寝静まった家でひとり、冷蔵庫の扉を開ける。
誰も食べない豪華な料理が、入りきらないくらい、ぎっしりと詰まっている。
取り出して、肉の色を確認する。
ああ、もうだめかもしれない。
誰にも食べられなかったそれを、乱暴にごみ箱に捨てた。
翌日、私はごみ出しをする。少し暗い、曇りの朝だ。
ごみ袋の中身は、食べられなかったそれらの腐敗で、ひどくにおいがする。
早く収集所に捨てに行かないと、においで気分が悪くなってしまう。胸から嫌なものがこみあげてくる。
近所の収集所で、笑顔で軽く挨拶をした。あの人は、誰だったっけ。
朝は忙しく、私の前を何台もの車が通りすぎた。車の中にはあの奥さんと、笑顔の子どもたち。
私は早く帰って、もっと家を美しく、正しく整えなくては。
家までほんの少しの距離なのに、私は息を切らす。暑いし、運動不足なんだろう。
温室の温度管理は難しい。
近所では、車がすべて出払った。
一人ぼっちの町で、無数の目が降り注いできた。それらは大粒の雨だった。
私は着替えを取りに、階段を上がる。
この家でたったひとつ、明りのない場所。風も通らない、私のクローゼットだ。
私は手を震わせて、扉を開けた。熱気がこもっている。
そこには、ぐちゃぐちゃにして、引き出しにただ突っ込んだだけの下着があふれていた。
皴だらけのブラウス。丸まったボトムス。片方しか見つからない靴下。
大事にされることもなくただ黙って、蒸れた空間で咲いていた。
私はクローゼットに立ち尽くす。
なぜ、ここだけこんなに荒れ果ててしまったのだろう。
幸せなはずなのに。完璧なはずなのに。
クローゼットは、温室に地続きの牢獄だ。
こんなに湿気ているのに、私はまたむせて、息が浅くなっていることに気づく。
肺が、ぎゅうっと捻じれるようだ。
目の前がぼんやりにじんで、境界が失われていく。
唇が、震えているのがわかる。
私は夫がわからない。ただ自分が震えていることだけが、わかる。
「 」
それは、言ってはいけなかった。
それだけは、絶対に言ってはいけなかったのだ。
「ありがとう」とだけ言って咲いていればよかったはずなのに。
私は膝をついて、皴だらけの服を抱き寄せた。
雨の音は、クローゼットの中では、ほんの少し遠くに聞こえるようだった。
