【触れたはずの、愛。〜瞬の記憶〜】
『触れたのは、愛と。』で描かれた恋の、その裏側にあった“彼”の物語。
本作はスピンオフ作品として、瞬の視点から綴られる恋の記憶です。
真里奈との出会いから、揺れ、そして別れまで──静かに、けれど確かにそこにあった愛のかたち。
※本編を読んでからでも、こちらから読んでも大丈夫です。
第1章 喧騒の中の青
今日は、友達の結婚式だった。
俺は、不参加に丸をして、仕事を優先した。
今の生活の中心は、ほとんどが仕事。
同年代の中では、まあまあ稼いでるほうだと思う。
友人の一人が、不参加の俺に不満げな電話をかけてきた。
「新婦の友達とか、かわいい子来るらしいよ!
当日参加もOKだってさ!」
ウキウキと話す友人を、適当にあしらって会社へ向かった。
一応、パーティーには仕事が終わったら顔を出すとだけ伝えてある。
貸し切りのクラブで、深夜までやるらしい。
かわいい女の子、新しい出会い。
──正直、興味はなかった。
見た目も、悪くないと思ってる。
……いや、背の高さに助けられてるだけかもしれないけど。
困らない程度にはモテる。
誰かに執着したことも、嫉妬に狂ったこともない。
要するに、本気の恋愛なんて、したことがない。
付き合って、別れる。
男と女なんて、ただそれだけの関係。
そんな俺が──
あんなふうに、人を見つめたのは。
あの日が、初めてだった。
***
仕事はとっくに終わり、シャワーも浴びたあと。
21時を回って、ようやく重い腰を上げパーティーへ向かう。
クラブのドアを開けた瞬間、大きな音楽と笑い声が押し寄せた。
酔っ払った人波を避けながら、カウンターで酒を頼む。
「やっと来たな!」
「おせーよ!」
すっかり出来上がった友人たちに肩を叩かれながら、
グラスを片手に新郎新婦へ軽くお祝いの言葉をかけた。
形式的な挨拶を済ませ、店の隅へと移動する。
人混みを眺めながら、壁に寄りかかって酒をすする。
──もう、帰ってもいいかな。
そんなことを考えながら、もう一杯、とカウンターへ視線を向けたときだった。
一際目立つ、鮮やかな青いジャケット。
黒くて長い、綺麗な髪が揺れている。
白い肌が、薄暗い店内でぼんやりと浮かんで見えた。
歩く姿に、思わず見とれた。
気づけば、目が離せなくなっていた。
不思議な感覚に、目が眩みそうになる。
「かわいいよな、あの子」
友達の声に、我に返る。
「ああ」とだけ、曖昧に返事をした。
「さっき近くで見たけど、すげぇ綺麗だったよ」
「誰かの知り合い?」
「新婦の友達の、後輩? 友達? ……って言ってたけど」
「へえー」
「なんだ、狙ってんのか?」
くだらない会話の最中も、俺の視線はずっと彼女を追っていた。
それが、なんの感情なのかなんて、わからなかった。
ただ──確かに、何かが動き出した。
***
すぐ帰るつもりだった。
挨拶も済ませたし、誰かと深く話す気もなかった。
けど、なぜか店を出る気になれなくて、俺はカウンターへ向かった。
彼女の姿を、追うように。
「……何飲んでるの?」
声をかけると、彼女は少し驚いたようにこちらを見て、それから笑った。
「ホワイトルシアン」
「へぇ…お酒強いんだね。じゃあ、もう一杯」
そう言ってグラスと名刺を差し出すと、
「ありがとう」と微笑んで、それを手に友達のもとへ戻っていった。
──なんなんだろう、これ。
その笑顔に、また不思議な気持ちが胸の奥で動いた。
やがて彼女たちは席を立ち、出口へと向かう。
俺も、追うようにして外へ出た。
そこへ1台の車が停まる。
運転席にいたのは、年上に見える男だった。
彼女は他の友達と数人で乗り込み、笑いながら去っていった。
……まぁ、そうなるよな。
胸の奥が、少しだけざらついた。
そんな感覚も、不思議と心地よかった。
タバコを吸いながら、彼女が乗り込んだ車のテールランプを、ただぼんやりと見送っていた。
頭のどこかでは、「何やってんだ、俺」と思っている。
でも、足はしばらくその場を動かなかった。
──名前、聞けばよかったな。
心の奥で、そんな小さな後悔が、静かに波紋のように広がっていた。
第2章 呼び出し音と約束
家に帰ってもずっと考えていた。
何かを掴み損ねたような、不思議な感覚。
あの笑顔が、妙に鮮明に、記憶に焼きついている。
まるで、静かな映画のワンシーンみたいに。
名刺は、たしかに受け取ってくれた。
──彼女からの連絡が来るように、ずっと祈っていた。
翌朝。
落ち着かない気持ちを誤魔化すように、ジムで汗を流す。
午後は仕事に手をつけてみたが、まったく集中できなかった。
気づけばスマホばかり見ていて、そんな自分にため息が出る。
タバコに火をつけて、ベランダへ出た。
少し冷たくなった風が、秋の気配を運んでいた。
再び机に戻り、なんとなくスマホを開いたそのとき──
「不在着信」の文字が、画面に浮かんでいた。
知らない番号に、心臓が跳ね上がった。
急いで掛け直す。
もし彼女だったら──
期待と不安が混ざったような気持ちで、呼び出し音を聞く。
「はい」
──間違いない。彼女の声だ。
「あ、もしもし。今、電話をいただいたんですが」
「あっ……昨日の……ホワイトルシアンの。覚えてます?」
「ああ、もちろん覚えてるよ」
「昨日は、ありがとうございました。ちゃんと話せなかったから……」
「わざわざ、ありがとう。……名前、教えてくれる?」
「真里奈です。……瞬さんって呼んでいいですか?」
「瞬でいいよ」
電話越しに聞こえる彼女の声は、思っていたより少し幼く感じた。
たわいもない会話は、意外なほど弾み、30分ほどがあっという間に過ぎた頃、俺は思い切って言った。
「よかったら、今度ご飯でも行かない?」
数秒の沈黙に、心臓が張り裂けそうになる。
「はい、行きたいです!……何なら今日でも!」
冗談交じりの明るい声に、思わず笑ってしまう。
「じゃあ……今日、行こうか?」
「ほんとに? うん、行く!どこにします?」
「近くまで迎えに行くよ」
待ち合わせ場所と時間を決めて電話を切ると、
思わずニヤけた顔を手で覆った。
シャワーを浴びて、カジュアルすぎない服を選ぶ。
香水も控えめにして、車で彼女を迎えに向かった。
途中のコンビニで、彼女の分の飲み物も買った。
何が好きかわからず、水、お茶、コーヒー……三本も。
──俺、なにしてんだか。
そう思いながらも、どこか楽しくて仕方がなかった。
駅に着くと、真里奈はすでに待っていた。
昨日とは少し違う雰囲気を纏って、静かに立っている。
その姿に、不思議と胸があたたかくなる。
こうして迎えにいくことが、こんなにも嬉しいなんて。
俺は今、初めて誰かに“幸せをもらっている”と感じていた。
第3章 交差した2人
車に乗り込んできた真里奈は、少し照れたような笑顔で言った。
「昨日はごちそうさまでした。ちゃんと話せなくてごめんなさい」
「ううん、全然。こっちこそ急に声かけて……びっくりさせたよね」
「ふふ、嬉しかったです。……迎えが来ちゃってて、帰らなきゃいけなかったから」
一瞬、言葉に詰まる。
「彼氏?」
「友達の彼氏です。飲みすぎた子がいて、まとめて迎えに来てくれた感じで」
「……そっか。確認もせずに誘っちゃったけど……彼氏とか、大丈夫?」
クスッと笑って、
「全然大丈夫……いないんで」
「そっか……それなら、よかった」
真里奈は少しだけ頬を赤らめて、窓の外に目を向けた。
行き先は、俺が何度か行ったことのある、落ち着いたレストランにした。
静かな照明に、小さなテーブル席。
気取らない店だけど、料理はちゃんと美味しい。
「わぁ、オムライスがふわっふわだ……」
真里奈は、子どもみたいに嬉しそうな顔でスプーンを運ぶ。
「仕事してるの?」
「はい。高校卒業してすぐ働き始めて……今、事務の仕事してます」
そう言って笑う姿が、年相応で、どこか安心する。
「そうか。……社会人、慣れた?」
「まだバタバタです。でも、楽しいかな」
たわいもない会話。だけど、沈黙が怖くない。
彼女の声を聞いているだけで、不思議と心が落ち着いた。
「瞬さんは、仕事なにしてるんですか?」
「営業。……わりとガツガツ系の」
「意外です。もっと、静かに本とか読んでそうなタイプかと」
「見た目で判断したな?」
「ふふ、ちょっとだけ」
そんなふうに笑い合えることが、嬉しかった。
食事を終え、車へ戻る道すがら、真里奈がぽつりとつぶやく。
「ごちそうさまでした……すごく美味しかったです」
そう言って笑う横顔に、俺も自然と笑みがこぼれる。
「ほんと? それならよかった」
車に乗り込み、駅までの道をゆっくり走る。
別れ際が近づくと、少しだけ沈黙が訪れた。
「……もし嫌じゃなかったら、家の近くまで送るよ?」
彼女が小さく口を開く。
「いいんですか?」
「もちろん」
近所だというコンビニの駐車場に車を停めて、そっと真里奈に目を向ける。
「ここで大丈夫?」
「はい、ありがとうございます。……あの、またどこか行きたいです」
「うん。俺も、そう思ってた」
LINEを交換し、彼女がドアを開ける。
「じゃあ……おやすみなさい、瞬さん」
「おやすみ。また連絡するよ」
手を軽く振って、彼女は歩いていった。
その後ろ姿を、しばらく目で追っていた。
──それから、毎日LINEが続いた。
「おはようございます」から始まり、
「今日もがんばってくださいね」
「お昼なに食べた?」
何気ないやりとりが、日常に溶け込んでいく。
メッセージが届くたびに、ふっと気持ちが緩む。
週末のたび、映画、カフェ、ちょっとした買い物。
彼女の笑顔を見ているだけで、満たされていく。
そして、何度目かのデートの帰り道。
夜景の綺麗な公園で、二人で並んで星を見ていた。
鼓動が、少しだけ速くなる。
「……真里奈」
「ん?」
彼女がこちらを向く。
「俺と……付き合ってくれる?」
一瞬の静寂。
それから、小さく頷いて、笑った。
「うん。……お願いします」
その夜、家まで送る車の中。
彼女の右手を、握った。
そっと握り返されたその温度に、確かな始まりを感じた。
第4章 その感情の名前は……
付き合いはじめてから、それは穏やかな幸せに包まれていた。
朝は「おはよう」、夜は「おやすみ」と、毎日LINEを送り合い、
仕事終わりの短い時間でも会おうとしてくれる彼女が、ただ嬉しかった。
「今日は暑かったね」
「コンビニで新作のアイス出てたよ」
他愛もないやり取りが、日々をやわらかく染めていく。
並んで歩く帰り道。
自然に繋がれた手。
「これ、たまたま見つけて……似合いそうだなって」
彼女がくれた小さなキーホルダーを家の鍵につけたとき、
こんなにも誰かに満たされる感覚があることを、初めて知った。
だけど──
その幸せは、真っ直ぐには続いてくれなかった。
穏やかな日々の中に、ふとした違和感が混ざり始めたのは、ほんの些細なことだった。
「今日は友達とごはん行ってくる!」
「そっか。楽しんでおいで」
そう返した指先が、少しだけ震えていた。
真里奈には友達が多い。
別に、何かやましいことをしているわけじゃないのはわかってる。
俺に隠しているわけでもない。
──その“友達”が、男だったのか女だったのか。
聞けなかった。
そんなこと、気にしないはずだったのに。
それ以来、少しずつ何かがズレはじめた。
返信が遅いだけで、何度もスマホを確認してしまう自分。
どこにいるんだろう。
誰といるんだろう。
次の約束が決まらないだけで、落ち着かなくなる。
会っているときでさえ、真里奈の携帯が鳴るたびに、不安が胸をかすめた。
「どうしたの? なんか今日、変だよ?」
そう言われて、咄嗟に笑ってごまかした。
──なんでもないよ。
ほんとは“なんでもある”のに。
気づかれたくなかった。
こんな醜い感情が、自分の中にあったことに。
俺はずっと、“余裕のある大人”を演じていた。
頼られる存在でいたかったし、無理やり繋ぎ止めるようなことはしたくなかった。
でも、少しずつ、心の奥に影が差していった。
本当は──
彼女のすべてが欲しかった。
誰にも触れさせたくなかった。
言葉にならない独占欲が、静かに顔を覗かせていた。
その気持ちに気づいたとき、自分でも少し怖くなった。
彼女に甘えるような言葉を送ってみたり、
いつもよりそっけなく返信してみたり──
こんなことで気を引こうとしている自分に、嫌気がさす。
「……情けないな、俺」
そんなある夜。
「飲みにいく」と連絡が来たまま、真里奈からLINEの通知がなかなか来なかった。
既読はついているのに、返信がないまま30分、1時間、2時間──
その沈黙が、やけに長く感じた。
「……俺、なにしてんだろ」
ソファに沈み込みながら、ため息を吐く。
彼女のことを、信じていないわけじゃない。
でも、期待と不安が同時に胸を叩く。
誰かと笑っているのか──それが、自分じゃない誰かだとしたら。
かつては、他人の恋愛に冷めた目を向けていたくせに。
今は、自分が誰よりも子どもみたいに不安定で。
まさか、自分の中にこれほど醜い感情があるとは──
知らなかった。
その夜、俺は小さな決意をした。
「ちゃんと、大人でいよう」
彼女に無理に何かを求めることはしたくない。
重たいと思われたくない。
だからこそ、余裕のある男でいたい。
──それが、彼女の隣に立ち続けるための条件だと思った。
でも──その“余裕”が、彼女の心をすり抜けていくことになるなんて。
その時の俺には、知るよしもなかった。
第5章 遠ざかる笑顔に気づく頃
「大人の男でいよう」と決めた俺は、徹底して“スマートな恋人”を演じた。
嫉妬もしない。束縛もしない。
彼女の予定に口を挟むこともなく、ただ「楽しんでね」と笑って送り出す。
デートは決まって高級なレストラン。
毎回、予約を取り、夜景の綺麗なホテルの部屋を用意する。
誕生日でも記念日でもない日に、小さなジュエリーを贈った。
「嬉しい!ありがとう」
真里奈が笑うたび、嬉しくなった。
その笑顔をもっと見たくて、手間も時間も惜しまなかった。
“彼女にとって心地いい時間”を過ごしてほしかった。
──もちろん今日も、そのつもりだった。
俺は、彼女の最寄駅で車を停めて待っていた。
「……ごめんなさい、遅くなっちゃって!」
15分ほど遅れて、真里奈が車に乗り込んでくる。
少し息を弾ませながら、それでもどこか機嫌がよさそうだった。
久しぶりに見る、明るくて柔らかな表情だった。
「おつかれ。大丈夫だった?」
「うん、たまたま知り合いと会って話してたら遅れちゃった」
そう言って笑う彼女を見て、俺はまた胸の中の黒い塊を押し殺す。
「そっか。じゃあ行こうか」
今日の店はフランス料理。もちろんコース料理を予約済みだ。
「これ、かわいいって言ってたよね」
そう言ってプレゼントを渡すと、
「……ありがとう」
そう返した真里奈は、少し戸惑ったような顔をしていた。
その表情の奥に、言葉にならない“違和感”があった。
──あれ? いつも、こんな顔で笑ってたっけ?
思い返してみる。
少しずつ、彼女の表情が曇るようになっていた気がする。
俺の話を聞いてくれてはいたけれど、反応は控えめになり、笑顔の回数も減っていた。
……なぜ、その変化に気づかなかったんだろう。
いや、気づかなかったわけじゃない。
きっと──見ないふりをしていたんだ。
俺は、どこを間違えたんだろう。
プレゼントも、高級レストランも、スマートなエスコートも──
もしかすると、それこそが彼女との距離をつくっていたのかもしれない。
“大人の男”を演じていた自分に、
酔っていただけだったのかもしれない。
マメで、余裕があって、完璧なデートをする男。
そんな人を彼女は求めていると、勝手に思い込んでいた。
だから、あの日──あの夜、俺に連絡をくれたのだと。
でも実際は──
こんなにも自分に自信がなかったなんて。
彼女の気持ちを、心から信じることすらできていなかったなんて。
気づいたとき、胸の奥がひどく冷えた。
真里奈は、確かにあの頃より笑顔が減っていた。
付き合い始めのころみたいに、
「なんでもない日を、ただ一緒に笑って過ごす」
そんな当たり前の時間が、どれだけ幸せだったか。
……あの頃に戻れるかもしれない、
そんな希望が浮かぶことは、なかった。
彼女の笑顔が──
今この瞬間だけのものじゃないことを、
俺はもう、うすうす気づいてしまっていたから。
第6章 聞けない心
もう、何をどうしたらいいのか、わからなくなっていた。
笑わせたいのに、笑ってくれない。
気がつくと、どこか遠くを見るような目をしている。
「好きだよ」と言って、優しく抱きしめても、
それは、届かない場所へ流れていくみたいだった。
それでも、俺は「大人の男」をやめられなかった。
今日も、静かなバーに案内して、少し背伸びしたカクテルを頼む。
笑顔が見たくて、心地よい時間を過ごしてほしくて。
──それだけだった、はずなのに。
けれど、その夜の彼女は、明らかにどこか上の空だった。
グラスを傾けながら、スマホばかり気にしている。
気づいていた。
でも、俺は何も言わなかった。
聞かなかった。
──聞けなかった。
「……今日は、帰ろう」
不意に言われて、少しだけ驚いた。
「何かあった?」
「……何もないよ。ちょっと、体調が悪いだけ」
嘘だってわかってた。
それでも俺は、「そっか。無理しないでね」
そう言って、彼女の頭を撫でた。
帰りの車内で、俺は“心配しているふり”をしていた。
「つらくない?」「もう少しで着くからね」
優しさの皮をかぶった、偽善みたいな言葉を並べながら。
家の前に着き、彼女を見つめて言う。
「大丈夫?何かあったら、すぐ連絡して」
「うん。ありがとう」
そう言って、真里奈は車を降りた。
鍵を開け、静かに家の中へ消えていく。
──俺は、大きく息を吐き、ハンドルにもたれかかった。
まさか、このあと誰かと会うんじゃないか──
そんな醜い想像が頭をよぎる。
抑えきれない黒い感情が、胸の内側を暴れ出す。
理性が追いつかない。
エンジンを切ったまま、1時間近く、彼女の家の前にいた。
わずかに残った理性が囁く。
「……もう、帰れ」
もし今、この姿を彼女に見られたら。
そう思った瞬間、自分の暴走が少し怖くなった。
慌てて車を出し、帰路につく。
家に着いてから、真里奈にLINEを送る。
《体調はどう?》
……既読はつかない。
少し時間をおいて、もう一通。
《ゆっくり休んでね。起きたら連絡して》
お揃いのスタンプで、そっとおやすみを伝えた。
もう、自分にできることは、一つしかない。
それは、わかっている。
だけど、どうしても認めたくなかった。
もう、どうにもならないのなら。
“大人のふり”を続けることを──決めた。
最終章 最後の意地悪
あの日から数日、彼女からの連絡はなかった。
俺からも、連絡はしなかった。
月曜の昼過ぎ、ふいにスマホが震える。
《時間あったら、少しだけ会える?》
──ついに、この時が来てしまった。
画面を見つめたまま、なかなか既読がつけられない。
何も手につかず、ただ胸がざわつく。
夕方になって、ようやく決心がつく。
《いいよ》とだけ、短く返す。
待ち合わせ場所は、付き合いはじめの頃によく通った駅前のカフェだった。
懐かしさと切なさに混じった空気の中、コーヒーを頼んでスマホを眺める。
彼女にまた会える嬉しさと、
今日で本当にすべてが終わってしまうのだろうという予感が、
胸の奥を締めつける。
それでも──最後まで“大人の男”を演じようと決めていた。
今の俺にできる、たったひとつの優しさ。
グッと奥歯に力を込めて、彼女を待つ。
扉が開く音がして、顔を上げる。
初めて会ったときと、何も変わらない彼女の姿。
思わず、少しだけ笑ってしまった。
「……久しぶり」
「うん」
アイスコーヒーを頼んだ彼女は、グラスに視線を落としたまま。
溶けていく氷を、ただ静かに見つめている。
「なんか……変だな」
気づけば口から漏れていた。
「何が?」
そう問われて、正直に答える。
「距離、かな。前はもっと近かったのに」
彼女は俯いたまま、小さな声で言う。
「……ごめんね」
ああ──終わったんだな。
そう思って、少しだけ視線を落とした。
申し訳なさそうに肩を落として、俺を見る彼女が
なんだか愛おしくて。
微かに笑いながら、黙って頷いた。
そして、駅まで最後に並んで歩く。
改札の前。気まずそうに俯く彼女に、声をかけた。
「そんな顔しないで、大丈夫だよ」
そう言って、彼女の頭を撫で、そっと肩に触れる。
「じゃあ、また」
改札を抜ける。振り返らず、前だけを見て歩く。
「また」はもう来ないと、わかっていた。
頭を撫でたことに、意味なんてなかった。
カフェを出たあたりから改札まで──
向かいの歩道に、真里奈を見つめる男がいたことに、
俺は気づいていたから。
最後に少しだけ、意地悪をしてしまった。
触れていた愛は、確かにそこにあった。
けれど、最後まで自分勝手に“大人のふり”をした俺の手から、
静かに、こぼれ落ちた。
エピローグ
あれから、数ヶ月が過ぎた。
季節が少しだけ変わって、駅前のカフェにも秋の気配が漂いはじめていた頃。
外回りの帰り、人混みの向こうに見覚えのある横顔を見つけた。
真里奈だった。隣には、あの時の男──。
ふたりは笑っていた。手をつなぎ、自然に寄り添って歩いていた。
不思議と、胸がざわつくことはなかった。
心から笑う幸せそうな彼女の表情に、俺も思わず、笑っていた。
あの頃、あんなにも必死で掴もうとしていたのに。
けれど今は、そっと手を離すことができた。
──次は、きっと。
“大人のふり”なんてしないで、自分のままでいよう。
誰かに愛されることを、もう少しだけ信じてみようと思う。
そんなことを考えながら、俺はネクタイをゆるめて、足早に職場へと戻った。
まだ、仕事が残っている。
“次”は──当分、先の話になりそうだ。
完
