【掌編小説】画面
先月奮発して買った液晶テレビには、冠水した国道が映っていた。合羽を着た現地の記者は「周囲の安全を確認した上でリポートしております」と言い、現場の状況を物々しく話し始めた。普段はあまりテレビを見ない加奈子が、珍しく液晶を見つめている。
「知り合いでも住んでたっけ」隆二が夕食の洗い物をしながら聞くと、彼女は画面を見たまま首を横に振った。
加奈子が作って隆二が片付けるのが、何となくのルールだった。先月から始めた同棲では、料理も掃除も洗濯も「得意な方がやればいい」で通している。本当は何をやらせても加奈子の方が器用なのだが、2人で暮らしていく以上、そういう訳にもいかなかった。
家事だけではない。2人は高校の同級生だが、勉強だって隆二が勝てたことはなかった。なぞなぞでもオセロでも、頭を使うもので隆二は加奈子に敵わなかった。隆二が何でもかんでも彼女に尋ねるので、「私あなたのスマホじゃないんだけど」が加奈子の口癖になっていた。隆二は自分には過ぎた恋人だと思っていた。
交際して間もなく10年が経つ。親も同級生も会う度に結婚はまだかと迫ってくる。決心して同棲を始めたが、プロポーズはまだだった。焦ることじゃないと思っていたが、最近時間があるとネットで指輪を調べるようになった。これだけは加奈子に尋ねることはできない。
洗い物を終え、換気扇の下で加熱式タバコを吸い始める。相当な被害だったのか、大雨のニュースはまだ続いていた。
「テレビは全然ほんとのこと言わないね」
加奈子がそう言って隆二を振り返ったが、隆二には言葉の意味がよく分からなかった。
「これただの自然現象じゃなくて、人工雨ってやつなんだよ。日本を弱体化するために、外国の軍隊が仕掛けてるってこと」加奈子は子供に教えるように言った。隆二にものを教えるときはいつもこの言い方だった。
嫌な予感はしていた。テレビではYouTubeも見られるのだが、加奈子のアカウントでログインしたままになっている時があった。出来心で履歴を覗くと、若い男が政治や国際問題を語っているように見える動画がいくつもあった。「Wake Up」というそのチャンネルの男は、坊主に近い短髪で厭に日焼けをしており、サムネには「メディアが報じない」とか「真実」とかそんな言葉ばかりが並んでいて、隆二は中身を見る前に電源を切った。このことを加奈子には尋ねない方がいい、と直感で思った。
翌日の仕事終わり、隆二は田島に電話した。田島は大学時代からの友人だった。
昨日の事を話すと、彼は「別れるなら今だよ」と言った。「10年だぞ。10年」と隆二が返すと、「そんな調子の奴と一生付き合っていけるのか」とさっきよりはっきりとした口調で言った。
家に帰る足取りは重かった。今のマンションを決めたのも加奈子だった。彼女は周辺地図やハザードマップを入念に見たりして決めていた。そういう周到さが良かった。出ていくなら自分だろうと思った。
結局家に入る勇気が湧かず、近くの児童公園のベンチに座り込んだ。午後6時を過ぎても、まだ小学生数人がサッカーボールを追いかけていた。もうすぐボールが見えなくなるぐらい日が落ちる時間だ。
隆二は加熱式タバコを吸い始める。スマホを出して「人工雨」を検索すると、「Wake Up」の男の動画が待ってましたとばかりに出てくる。「人工雨徹底解説! あの国との関係は!?」の見出しと、貼り付いたような男の笑顔。浅黒い肌と対照的に歯だけが陶器みたいに白い。煙を吐き出してタッチすると、「皆さんWake Up! おはようございます、こんにちは、あるいはこんばんは!」と奇妙な挨拶で動画が始まった。
動画を何となく見ていると、隣のベンチに学生服の男女が座った。隆二はすぐにスマホの音を絞る。男の声が風で葉が擦れる音や、子供達の笑い声でかき消される。横の2人は親密そうに手を絡ませながら何かを語り合っている。男は声を奪われても丁寧な字幕で主張を訴えていた。隆二には内容が難しくて理解できないし、切れ味鋭い反論も思い浮かばない。「ねえこれって」と尋ねる相手は家の中にいる。横の2人はドーナツを食べ始めていた。片手が塞がっても、余った方の手は絡み合ったままだ。ちらちら見ていると隆二も腹が減った。
男の動画にラインの通知が被さる。「夕ご飯適当に作ったよ。アイスでも買ってきて。チョコのやつ」加奈子からだった。こういうタイミングが不思議と合うから心地良い。そんな相手はもう現れないような気もする。
タバコは吸い終わりを知らせるように点滅していた。とりあえずアイスを探そう。加奈子が好きそうなのを二つ買って彼女が選ばなかった方を食べよう。それから考えたい。隆二はゆっくり立ち上がり、コンビニに向かった。
