秋に「ちいさい秋」を見つけるのは間違っていると思う
「ちいさい秋」は夏の終わりの始まりにあるのではないか?
私の住んでいる北海道の都市では今年は30度後半の気温が続き、全国の他の地域と同じく大変暑い夏となった。
ところが、夏の暑さは毎年違えども、必ずどこかで秋を感じる瞬間がある。
夏を放物線として捉えるならば、やがて頂点に至り秋への下降線をたどることになる。まだまだ暑い日が続いているけれども、どこかその日差しの強さが和らぎ始める瞬間がある。
今年だってめちゃくちゃ暑かった。けれども。先週末ほのかに、日差しのパワーの減衰を感じた。
本当にほのかに、日差しの減衰を感じたのだ。
あるいは他にも要因があるかもしれない。風のせいだろうか、湿度のせいだろうか、雲の高さのせいだろうか、朝夕の雰囲気のせいだろうか。
絶対に夏のどこかで、「ん、ちょっと秋きたぞ?」みたいな感じになる。
これこそが「ちいさい秋みつけた」ではないか。
「ちいさい秋みつけた」は実際には秋ど真ん中だ。「でっけえ秋」だ。
「ちいさい秋みつけた」の歌詞で語られる「秋」の要素は「もず(百舌)」「あきのかぜ」「はぜ(櫨)」だ。百舌は秋に鳴く鳥。櫨は紅葉が美しい樹木。
舞台はどっぷり秋に浸かっている。
この「ちいさい秋みつけた」では、日々の暮らしの中で感じ取れる秋の瞬間を「ちいさい秋」と形容している。サトウハチローの叙情的な素晴らしい歌詞だ。
問題は近年の我々の作る映像にある。私たちは「ちいさい秋みつけた」に対してテレビやYouTubeなどで映像をつけるとき、思いっきり、思いっきり秋の映像を流していないか?
今日はこれを超問題にしたい。俺たちは勝手に「ちいさい秋」に秋ど真ん中の映像や写真を添えがちだ。
こんなん「どでかい秋」じゃねーか!!
サトウハチローの歌詞の中でさえ、秋を感じるきっかけが小さいのであって、実際には季節はすでに秋ど真ん中だ。じつは「おおきい秋」のなかで「ちいさい秋」を感じている。「ちいさい秋」を入り口に、歌詞の主人公は「でっけえ秋」のなかにいることを感じ取る。
私たちは情緒に乏しいがため、サトウハチローが論じた「ちいさい秋」⇄「でっけえ秋」へのダイナミズムを正確に感じ取れていないことが多い。単純なる「アホみたいなデカさの秋」「大々的な秋」「超ド級の秋」「ドデカい秋」を「ちいさい秋みつけた」を映像化する際に添えてしまう。ちいさい秋って言ってんだろうが!!
なんてもったいないことをしているのだろうか? 秋やあるいは「ちいさい秋」概念に対して、私たちは極めてもったいないことをしている。
おわりに
ということで私たちは「ちいさい秋」に対して様々な次元で理解が不十分である。
サトウハチローは「ちいさい秋」から「でっけえ秋」へのダイナミズムを描いていたのだ。「ちいさい秋みつけた」に画像イメージを添えるのであれば、それは禁欲的に近視眼的な描写にするべきだろう。あるいはせめて、そこから始めて「でっけえ秋」へとつなげるべきだろう。ただ「でっけえ秋」で描写するんじゃねーーーーー。
サトウハチローの世界観からは遊離するが、個人的には、(北海道では)夏のこの時期こそ実際に「ちいさい秋」が見つかるのではないかと思っている。
秋は秋の季節になっちゃうとぶっちゃけ「でっけえ秋」だ。「でっけえ秋」の時空間だ。
ところがまだ夏のこの時期。少しだけ次の季節の雰囲気が顔を覗かせるこの時期。
この時期こそが真の意味での「ちいさい秋」なのではないか。
と、私は信じている。
