ギフテッド 二十歳過ぎれば 只の人?
ただの人になれたら良いんですけどねぇ……。
というわけで、今日は川柳から入ってみました。
自分が辛い時期に友人から勧められた映画
『グッド・ウィル・ハンティング』
これについてもまた感想文を書きたいのですが、重い題材で思考をまとめるには中々覚悟が必要ですので、今日はこの映画を見て自分が考えたことを一つだけお話します。
映画の内容については今回語りませんが、主人公は20歳のギフテッドです。
才能を持ちながら心を閉ざした青年が、数学教授や心理学者とぶつかりながら自身の才能と人生に向き合い、自分の道を切り開いていく物語です。
この映画を見て、最初に思い浮かんだ言葉がありました。
十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人
10歳では天から授かったような才能を持つ神童だと言われるものの、
15歳では少し頭の回転が早い程度の才気ある若者になり、
20歳を過ぎるころには普通の人に落ちつく
この言葉は、幼少期の才能が枯渇する、もしくは目立たなくなるというような文脈で用いられることが多いように感じます。
しかし、本当にその本人は只の人になっているのでしょうか?
よく考えてみれば、この言葉は
『ギフテッド』
そのものじゃないですか??
そもそも、このことわざの主体は誰ですか?
解釈が複数あることは承知ですが、一般的には周囲の大人ですよね?
「こんな天才児が大人になったら、さぞ凄い成果を挙げることだろう!」
と勝手に期待していただけではないですか?
そう考えるとなかなか残酷な言葉です。
ギフテッド本人は、思春期に相当な苦痛を抱えるでしょう。
一般的には同年代と共に過ごす時期ですが、同年代とは絶望的なまでの精神年齢の開き、興味対象の隔絶があります。
変な奴だといじめられるかもしれません。
そんな中で目立たないように過ごすという処世術を身に着けただけなのに、周囲の大人からは「大したことない青年になったな」と評価されるのです。
もしくは、社会システムの理不尽さや退屈さを早々に理解して社会での競争から降りるというのもありがちかもしれません。
我慢してでも社会的成功を得るということができず、脳があまりの理不尽や退屈に耐えられないのです。
自分の場合、早々に『受験勉強』というもののゴールが見えてしまい、大学受験のための勉強を始める前に大学受験のレールから撤退しました。
子供心に周囲の大人から将来を期待されていると理解していましたが、ただ点数を取るだけの退屈な作業に耐えられなくなったのです。
確かに、学習塾に通い始めた頃は勉強がとても楽しくて
”テストというゲーム”
をいかに攻略するか、という最適化にハマりました。
すぐに成果が出るようになりました。
しかし、しばらくするとこのゲームの底の浅さに気づいてしまい、これをあと何年も続けるのかと思うとあまりに退屈で耐えがたいと感じるようになったのです。
これと似ていますが、同じことを長期間継続することが苦手だから社会的に成功できないという背景も、もしかしたらあるかもしれません。
一つの興味対象に集中できるタイプや環境であれば良いのですが、そうでなければ脳が退屈するため、一つのことに長期間集中し続けることが困難になるというのもありがちです。
新しい物事を始めると、様々な情報を収集したり、集めた情報を分析して非常に早いサイクルで試行錯誤することであっという間に最適化していきます。
すると、その分野ですぐ上級者になってしまいます。
「こんな簡単に上位にたどり着けるような分野だったのか」
と思うと、それまですさまじい勢いで情熱を傾けて極めていたのに、突然一切の興味を失ってしまいます。
そうやって、上級者からその分野のトップに上り詰める前に飽きてしまい、また別の新たなことを始める。
そんなギフテッド傾向のある人もいるのではないでしょうか?
未知の分野に取り組み始めて、ものすごい勢いで知識や技術や体力を身に着けていく過程が一番脳への刺激が強いですからね。
ある程度身についてくると刺激が弱くなって脳が退屈してしまいます。
このような性質も特定の分野で大成しにくい要因なのかもしれません。
グッド・ウィル・ハンティングの主人公も数学で非凡な才能を見せますが、彼にとってはあまりに簡単なため、本人はその才能に価値を感じていません。
難解な数学の問題を解くことは、彼にとって退屈過ぎたのです。
……と、いくつかの視点から考えてみました。
このような様々な要因が重なり、20歳になる頃には周囲から見れば ”凡人” のように見えてしまうというのが、この格言の本質ではないかと思います。
何のための人生なのか?
そもそも、あなたの人生は何のためにありますか?
幼少期から期待してくれた周囲の大人のためですか?
その期待に応えたら幸せな人生になるのですか?
社会的に成功し、富を手に入れたら幸せですか?
物質的な豊かさだけで幸せな人生を送れますか?
そう考えると、ギフテッドにとっての幸せとは何か、少し見えてきます。
幼少期、神童だと持て囃した大人たちが期待するような、退屈なレールに乗った人生では満足できないことが多いでしょう。
たとえ社会的に求められないようなことだったとしても
能力に対して報酬が見合わない仕事だったとしても
その時にやりたいことを全力で追いかけられるような人生であれば幸せではないですか?
趣味にしても仕事にしても、知的好奇心の赴くままに突き進み、この脳の暴走とも言える情熱を燃やし続けられたら幸せではないですか?
普通の人生、普通の幸せを目指して、普通に擬態しようとしても疲れるだけで幸せにはなれませんよね?
周囲の人たちに「ただの人になったね」と言われようが気にしません。
「それは勝手に期待して、勝手に失望しているあなたの問題だ!」
「自分は生まれてから今まで一貫してずっと自分自身であり続けている!」
「この制御不能なまでの爆発的な情熱と脳の暴走は誰にも止められない!」
おわりに
いつも通り、仕事から帰宅して服を脱ぎ、冬にパンツ一枚でPCに向かってこんな文章を叩きつけてしまいました。
そんな自分が、いちばん自分らしいありのままなのです。
それが自分にとっての幸せなのです。
おしまい。
