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ちょっと…(高良大社、髙樹神社)


高良大社
屏風を立て連ねたような起伏の少ない嶺を持つ耳納連山の西の端、標高312mの高良山にのぼると、眼下には筑紫平野と悠々と流れる筑後川を一望できます。

筑紫平野の豊穣を1600年見守る延命長寿の神
筑前、筑後、肥前の三国に広がる筑紫平野のほぼ中央にあるこの山は船のようなかたちをした山の突端でその舵をとるかのように思われたのかもしれません。肥前風土記によれば「昔、筑後国御井川(筑後川)の渡瀬がはなはだ広くて人畜も渡りにくかったが、生葉(浮羽)に駐在の景行天皇は生葉山(水縄山)を船山となし、、高羅山(高良山)を梶山となし、船を造り備えて人々を漕ぎ渡らせた。」とあり、別名、梶山、高牟礼山、不濡山の異名を持ち人々は霊山と仰ぎ五穀豊穣を祈願しました。 この山に鎮座する高良大社(高良玉垂宮)は履中天皇元年(400)の創設といわれ宗教・政治・文化の中心、軍事の要衝として1600年にわたる歴史を刻んできました。

「絹本着色高良大社縁起」によれば神功皇后の新羅征伐の際、高良神(藤大臣と称し月神の化身)が・皇后に潮の満ち引きを操る干珠と満珠を献上したといわれています。また、高良とは船底板を指す航を意味し、 高良玉垂宮は舟と水の守護神であるという説もあります。長野・大石水道で知られる五庄屋の妻も、水が逆流した時、髪を切りこの高良大社へと工事の成功を祈願にきたといいます。

8世紀の終わりに朝廷から従五位下を授けられ、9世紀の終わりには最高位である正一位につき、地方を代表する「筑後一宮」として栄華を極めた高良大社も興亡を繰り返し、南北朝時代から戦国時代にはの山を巡る諸勢力の攻防が耳納山一帯で繰り広げられていました。今では延命長寿の神として知られ、天高く伸びる高良杉が威容を誇っています。 社殿と参道入り口の石造鳥居、「紙本墨書平家物語」などは国の重要文化財。本殿と拝殿とを幣殿でつないだ権現造である現在の社殿は、三代藩主有馬頼利公の寄進です。
(みのうの豆本より)

前に書いた話(真ん中辺り)の続きを…

高良大社

高良大社の入り口の大鳥居から、しばらく行くと左側に鳥居が見えてきます。

そこには境外末社の高樹(たかぎ)神社があります。

祭神は高皇産霊神(たかみむすび)といい、古くは高牟礼権現(たかむれごんげん)という高良山の地主神だったようです。

境内入口の鳥居 左に猿田彦大神

拝殿

御由緒

高樹神社
祭神は高皇産霊神(造化の三神の一)。
古くは「高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。
この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶二年(八七八)十一月十三日の条に「筑後国高樹神ニ従五位ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが、天慶七年(九四四)の「筑後国内神名帳」によって知られる。
もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入を禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのも、この神の名に因むものである。
明治六年(一八七三)三月十四日郷社に列し、大正十一年(一九二二)十一月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定された。
例祭日 十二月十三日
 (社前案内板より)

神籠石とは

女山神籠石の一部

この石は、みやま市女山中腹に残る国指定史跡「女山神籠石」列石の一部。福岡県、佐賀県、山口県にわたり9ヶ所(福岡県に6ヶ所)あります。(全国の山城を加えると16ヶ所?)

神籠石の民話鬼たちの陣取りならず 謎だらけの神籠石
高良大社に登ると、自動車道に並行して一片1m弱の巨大な切石が社殿後方から西山麓にかけて約1・5km一列に続いています。昔むかし。高良山には、たいへん悪い鬼たちがおり、里の人々を苦しめていました。高良の神様も、何とか鬼たちを苦しめようと思うのですが、よい方法がうかびません。
ある日のこと、鬼たちは神様に、高良の山を全部、自分たちのすみかにくれと言つてきましたにれには神様もたいへん怒って、家来武内宿禰にご相談なさいました。「良い考えがございます」と宿祢。返事を待つ鬼たちのもとに、こんな返事を伝えました。「明日の朝までに、三人抱えの大石でこの山ぐるりと囲んだら、その中をお前たちの領分にあげよう。しかし、できなかったら、お前たちがでていくんだ」
鬼たちは大喜びであちこちから、大石を取り出しては並べ始めました。その速さたるやすさまじく朝までには随分時間があるというのに石囲いは完成に近づいております。そこで宿禰は、白いニワトリに身を変え、「コケッコッコー」と、全山を揺るがす鳴き声をあげたのです。鬼たちはもうびっくり。朝が来たと、勘違いをして、一目散に逃げ出しました。鬼たちが並べた石は山に残り、里人はこれを「神籠石」と呼んだのでした。
九州・山口の八箇所で確認されている神籠石は同じ様式で、大宰府の水城や大野城と言った対朝鮮、対中国への防衛ラインと同じ唐尺が使われていることから、同じ権力築いたものと思われますが、これだけの大事業でありながら、何一つ記録がない謎に満ちた遺跡で、国の指定史跡となっています。
(みのうの豆本より)

築造の年代は6世紀から8世紀の間と推定されています。

高良山神籠石

女山神籠石

・杷木神籠石

鹿毛馬神籠石

御所ヶ谷神籠石

雷山神籠石

・帯隈山神籠石

・おつぼ山神籠石

石城山神籠石

「神籠石」と呼ばれる遺跡は、福岡県を中心に9ヶ所。その遺跡は山塊地形を利用した石列・水門の連なりで、例えば雷山神籠石は山頂部を鉢巻状に囲み御所ケ谷神籠石などは山塊の稜線を繋いでいる。みやま市の女山神籠石の場合、西側山麓部から古塚山頂を包むように列石・水門が続いている。

遺構の名称は、高良山神籠石が高良玉垂宮を取り巻くように発見され、その境内図の中に「神籠石」の文字があったことから名づけられた。しかし、各神籠石の発掘調査が行われた結果、現在では古代の山代遺構であることが略々断定されるまでになっている。

神籠石の構造は石列に沿って土塁を築き上げ、谷筋には渓谷の流水路を塞ぐために水門を開けた石積みを施し山頂部全体が防護壁によって保護されて外部からの侵入を阻止できるよう配慮されている。その構築技法から「日本書紀」等にみえる大野城(糟屋郡宇美町外)・基肄城(佐賀県基山町外)・金田城(長崎県美津島町)などと等しく、朝鮮渡来の技術者によって築かれた「朝鮮式古代山城」遺構の系統を汲んでいると推定され、その構築時期は古墳時代の後期、特に唐・新羅と日本・百済による白村江の戦いがあった7世紀中頃前後の緊張した時期、もしくは6〜8世紀の間と考えられる。勿論、その分布・規模から大和政権による国家的事業として築造されたものとみられている。

また、みやま市界隈は神功皇后時代の田油津姫終焉の地ともいわれており歴史が動いた場所でもあります。

話を戻して、御由緒より…

地主神だった高皇産霊神(たかみむすび)の神は高良山の山上に鎮座していたのに、一夜の宿を貸したが為に、高良の神によって神籠石という結界を張られて戻れなくなってしまいました…

どうやら、高樹神社…高木神社は英彦山系の神様のようで、時代的背景により高良の神に山を明け渡したのかな?とも考えられそうです。

英彦山神宮

高良山は別名を高牟礼山(たかむれやま)といい、鷹群れ山と考えれば…

以前書いたコレに繋がる?

追記)
牟礼とは古代朝鮮語で山(小高い丘陵)を意味する言葉に由来するとか。
日本語説では「群(ムレ・村落)説が有力とか。

牟礼は九州や西日本に多い地名であることから7世紀頃に渡来した氏族が住み着いた地域とする説もあるようです。(他に東京都、長野県、香川県など)

東京の三鷹に牟礼という地域があり何か関係があるかも!と調べたら、三鷹は江戸時代にこの一帯が徳川将軍家などの「鷹狩り(たかがり)を行う御鷹場」で「世田谷領・府中領・野方領」の3つの領地にまたがっていたことから「三領の鷹場(鷹場村々)」といわれたいたことが由来らしいです。
(三鷹と称するようになったのは、三鷹村(明治22年(1889年))がはじまり。)

東京三鷹の牟礼、新川には高麗という名字の方が多く住んでいるとか。

牟礼系高橋氏は現在の東京都三鷹市牟礼(むれ)にあった旧家で小田原北条氏の家臣である高橋康種が天正年間の北条氏滅亡後に帰農し世襲名主となった家系。元は筑後高橋氏(福岡県三井郡大刀洗町上高橋から下高橋辺りか?)で京都、伊豆、小田原を経て現在の三鷹市へ来た模様。

牟礼に村が成立したのは天正18年(1590)で綱種の子高橋常陸介康種が牟礼村を開いたと。綱種、康種と親子揃って北条氏当主の名を拝領し北条の名乗りまで許されているほどの重臣だったようです。

日本書紀の応神天皇43年9月条に百済系渡来人の酒君(さけのきみ)が依羅屯倉(よさみのみやけ)」の阿弭古(あびこ)から献上された鷹を天皇に奉り飼育を命じられたという鷹狩伝承が記載されています。
※依羅屯倉は現在の大阪府大阪市住吉区や松原市周辺に置かれた大和王権(朝廷)の直轄領および穀物倉庫群。

上記のことから朝鮮半島から日本へ渡来して来たように思われますが、日本の墳墓の形式である前方後円墳が古代の海上路の要所である朝鮮半島南西部、全羅南道の海岸一帯に10基存在するということが1980~1990年代に相次いで確認されています。4~6世紀に日本が朝鮮半島南部を支配したという「任那日本府説」を裏付ける物証とされており長鼓峰古墳は追加発掘後に一般公開される予定でしたが任那日本府説の根拠になることを懸念して埋め戻されたようです。 百済政府の統制を受けた倭人官僚や傭兵という説や、日本に移住し現地の墓の文化の影響を受け帰国した馬韓人または百済人という説などの説もあるよう。
とはいえ、朝鮮半島、支那(china)、東南アジア、ロシアなど各地から流入、日本列島から流出もあったと。

鬼界アカホヤ噴火(鬼界カルデラ噴火)直後(約7300年前)、北部九州の縄文人達が難を逃れる為に当時は無人だった対馬、そして朝鮮半島、長江付近に渡って定住したようです。(約2万年前に氷河期が終わり、それまでの朝鮮半島の住民は北に移動したため約7000年前までほぼ無人であった。森林伐採ではげ山になり住めなくなってしまった説もあります。)
朝鮮半島古代人は縄文人であり、朝鮮半島から日本に渡来していたとしても縄文人の末裔と考えられます。

また、当時の朝鮮半島では約7000年前から人口が急増。場所はすべて日本寄りの海岸で出土した人骨を分析したところ朝鮮半島古代人の多くは縄文人とほぼ同じDNAを持っていたようです。

南九州の縄文文化は本州の縄文文化より進んでいたといわれていますが噴火後は生活は壊滅し東京八丈島、南関東や近畿、中部地方など日本各地へも避難したようです。メソポタミア、エジプト、長江流域、北米、南米にいたる説もあるようです。


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