信州囲碁史研究紀行(後篇)
3日目からは松本、塩尻、諏訪方面へ移動した。4日目(最終日)は上田、小諸、佐久を巡った。順番が前後するが、関係性の上でまず塩尻の白木助右衛門から紹介したい。
塩尻の白木助右衛門
関山仙太夫と並び信州囲碁界の双璧とされたのが白木助右衛門である。文化十二年、塩尻村堀之内に生まれた。七歳のときに父と江戸に移り住んだが、その近くに本因坊丈和の家があったことから本因坊家の門人となる。十七歳で初段、三十四歳で三段となっている。嘉永年間に彦根井伊家に召出されて囲碁の教授を勤め、その間、公卿、武家など一流人と多く交遊したという。そして明治十八年、八十歳で没するまで郷里である塩尻村桟敷(現塩尻市桟敷)に囲碁道場を構え後進の育成に力を注いでいる。
白木助右衛門は自著『棋家系譜』に自らのことを次のように記している。
三段白木助右衛門 信州塩尻宿堀之内村産 右は丈和先生の弟子也幼年七歳より囲碁を好み直に江戸に出其節丈和先生江戸神田和泉橋茶点の横丁に住居
右の宅へ日本橋より日々通ひ稽古仕候 天保九年江州彦根にて関山仙太夫に定先二番続勝候右の趣江戸表へ聞へ本因坊丈和先生より贈り免状三段を得候
関山は六段程御座候本因坊丈和先生にも定二つ四番打切関山氏の勝也 尤も写しも御座無
助右衛門は幼名を虎之助といった。関山仙太夫と同じ幼名である。
七歳の時に父と江戸に出ているが、ほどなくして父は塩尻に戻り、虎之助は江戸の叔父の家に養われている。叔父は日本橋で雑貨商として成功しており、農家の次男であった虎之助は江戸で商人の道を歩もうとしたのかもしれない。これは虎之助自身の意志ではなく、家や親類筋の思惑であった。
しかし、近くに住んでいた本因坊丈和との出会いが大きく人生を変えたのである。助右衛門の丈和に対する態度は、絶対の師に対する尊敬に満ちていたという。虎之助は初段になると助右衛門と改名している。助右衛門の囲碁に対する打ち込みぶりを見て周囲も商人として立つことは断念したのであろう。
三段になった頃、助右衛門に養子の話があった。それは丈和も勧めており、叔父が間に立ち丈和が側面から助言している。養子縁組は塩尻宿桟敷村の米窪家からのものであった。米窪家の当主良太郎には、ゆきという一人娘がいた。助右衛門は塩尻宿に時折姿を見せており、ゆきも知っていた。晩年には助右衛門を改め米窪良太郎を襲名している。
助右衛門の功績に『棋家系譜』の編纂がある。これまでの記事の中で何度か登場しているが、家元をはじめとする碁打ちの記録である。 助右衛門は筆まめで他にも多くの記録を残している。それらは白木資料として米窪家が所蔵している。長野の囲碁史研究家中田敬三氏がそれらを調査され発表している。本因坊家との書簡のやり取りもあり、当時の様子を知る貴重な史料になっている。
助右衛門は明治年十八年六月に亡くなっている。そして、大正二年に養子の邦弥氏によって塩尻市桟敷へ顕彰碑が建立された。


碑文は次のとおりである。
柏園翁之碑
俗名良太郎又称助右衛門塩尻村堀之内本姓白木後冒
米窪幼穎悟夙成嘗從父在於江戸居近本因坊棋館此七
歲有人奕棋則瞪視不動九歲乃能对局児者異焉十七歲
与初段載就本因坊丈和学焉技益進天保十年三十四歲
陞三段於是歴遊海內足跡殆遍天下弟子三百人嘉永中
〇仕於彦根侯伊井掃部頭眷遇頗渥卒翁致再巡遊四方
所交公卿士大夫至騷人〇不遑枚举為人澹泊〇敗如士
魂嘗造草賜黄金煙管己而出門途逢〇〇者易数尾而去
矣其曠達大率類〇彦根侯称其技授楸杵今伝存子家慶
応中候朝江戸往来過塩尻輒賜謁於其里聞人以為螢矣
〇〇〇天授善象棋二十歳追初段於天文暦数医薬莫不
通焉或作歴戦施菓腹笥豊有恢然有余触機流露無姓而
不可焉其退隱於桑梓也致力於門弟指導循々不惓明治
十八年六月以八十歲終
大正二年十一月養子邦弥砺石道傍
小諸の鈴木善人
幕末期に信州は囲碁が盛んなところとして知られていた。信州の囲碁文化を支えた強豪として松代の関山仙太夫、塩尻の白木助右衛門が挙げられるが、もう一人、小諸の鈴木善人の存在も忘れてはならない。
後に、「生国信州小諸」と言われる鈴木善人翁は、東京牛込の生まれで本姓は粟田、名は善之助といった。
幼いころから碁を好み、天保十年(一八四〇)に水谷琢順の門に入ると、その後、本因坊門下となり、天保十三年、十五歳の時に初段、天保十七年には四段にまで昇段している。
当時、本因坊門には一歳下の秀策や秀甫という天才がいて、自分の限界を悟ったのか、善之助は江戸を出て尾州徳川家囲碁指南役であった鈴木丈清の養子となっている。鈴木姓となったのはこの時である。
ここから先は
¥ 500
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
