令和の猿の覚書1083「フロイト先生 - 自我とエス①ー地図を、描き直す」
性欲論三篇で、
リビドーがどこに向かうかを見た。
夢解釈で、
リビドーが堰き止められた時に
どこへ漏れるかを見た。
今回はその先、
漏れる前に「堰き止める力」
そのものの正体を見にいく。
フロイト先生67歳、
1923年の著作『自我とエス』。
性欲論三篇から約20年、
夢解釈からも20年以上が経った、
かなり後期の仕事である。
夢解釈の頃、
先生は心を「意識/前意識/無意識」
という地図で説明していた。
意識は処理する側、
無意識は処理される側の欲動。
この地図はかなりうまく機能していた。
ところが臨床を重ねるうちに、
ひとつの矛盾にぶつかる。
夢の中で欲動を変装させていた「検閲官」、
あの力自体が、
無意識のうちに働いていたのだ。
抑圧する側のはずの検閲官が、
無意識の領域に住んでいる。
これでは「意識=処理する側」
「無意識=処理される側」という
対応そのものが崩れてしまう。
地図を描き直す必要があった。
そこで先生が新しく持ち出したのが、
エス・自我・超自我という
三層構造である。
エスは、欲動のたまり場。
最も古く、最も無秩序な層で、
常に無意識のうちにある。
論理もなければ、
矛盾を禁じる仕組みもない。
あるのはただ快感原則、
つまり「快を求め、不快を避けたい」
という欲動の塊だけだ。
自我は、
エスの一部が外界と接触する中で
分化してできた層である。
現実をよく見て、エスと外界と、
もうひとつ後で出てくる
超自我との間を調整する役回り。
「自我=意識」と思いたくなるが、
これは正確ではない。
自我のうち、外界を知覚し
判断する部分は意識・前意識として働くが、
防衛や検閲にあたる部分は
無意識のうちに動いている。
超自我は、
エディプス・コンプレックスが
解消されていく過程で、
親(特に父)の禁止が
自我の中に取り込まれてできた層。
良心や罪悪感、
理想像といったものの源泉になる。
これも本人が自覚しないまま、
無意識のうちに働くことが多い。
つまり今回の描き直しの肝は、
「意識かどうか」という
軸を捨てたことではなく、
「意識かどうか」という軸だけでは、
心の働きを十分に説明できないと
先生が認めたことにある。
エス・自我・超自我は、
意識/無意識ときれいに
一対一対応しない。
自我の中にも超自我の中にも、
無意識の領域が食い込んでいる。
夢解釈で「検閲官」と呼んでいたあの力に、
ここでようやく名前がつく。
超自我である。
ただし、それが
どう自我を板挟みにしていくのかは、
もう少し先の話になる。
今回はまず、地図そのものが
描き直された、というところまで。
この『自我とエス』は、
夢の理論の続きではない。
夢という現象を入り口に
無意識の働き方を覗いていた
夢解釈アークとは別に、
心そのものの構造を扱う一般理論、
いわばフロイト先生の
理論の土台を見にいくアークである。
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**免責事項**
これはフロイト先生の『自我とエス』をベースにした対話的な学びの記録です。精神分析の専門的な厳密性よりも、仙人の水脈(π/OM)との接続を優先した解釈を含みます。「仮説と更新」の精神でお読みいただけると幸いです。
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**リラのコメント**
今回からフロイト先生は
「夢」を離れて、
心そのものの設計図に手を入れ始めます。
それまでは「意識」と「無意識」、
つまり「分かっている部分」と
「分かっていない部分」で
心を二つに分けていました。
でも臨床を重ねるうちに、
その分け方では
説明できないことが出てきます。
たとえば「隠そうとする力」そのものが、
本人にも気づかれないまま働いていた、
というように。
そこで先生が用意したのが、
エス(欲動のかたまり)・
自我(調整役)・
超自我(良心や禁止の声)
という三つの層です。
面白いのは、この三つが
「意識/無意識」のラインと
きれいに重ならないこと。
自我の中にも、
超自我の中にも、
無意識の部分が入り込んでいるんですね。
夢解釈の回で出てきた「検閲官」、
あの正体不明だった力に、
ここでようやく名前がつきます。
超自我です。
次回以降、
この三人がどうやって
お互いを押し合いへし合いしていくのか、
という話に入っていきます。
