【知られざるアーティストの記憶】第23話 次男と喘息のおじ
第4章 入院3クール目と4クール目の間
第23話 次男と喘息のおじ
マリの次男ヒカルが自閉症であることは、マリにとって年齢や性別と同じように所与の事実であって、悲観を纏うようなものでも、なるべく隠しておきたいと思うものでもなかった。したがって、誰に対しても必要があればそのことを平たい事実としてさらりと話していた。彼に対しても同様に、いつ伝えたかもわからないほどに、会話の中で自然にそれを伝えたような気がする。ところが伝えられた彼のほうは、ずいぶんと重い秘密を打ち明けられたように感じていたらしかった。
同様に次男が喘息持ちだということも、マリにとっては何気ない事柄の一つとして会話の中でぽろっと口にしたに過ぎなかった。
「次男が喘息なので、定期的に小児科につれていって薬をもらわないといけないんですよ。」
というような具合であった。それは2021年7月13日のことだった。
「えっ、次男は喘息なの?」
と、途端に彼の顔が引きつったかと思うと、まるで地獄の火を眺めるかの如く険しい表情に変わった。それを見てマリは少し恐ろしくなった。
「……え、どうしたんですか?私も喘息ですけど……?」
「えっ、あなたも喘息なのか。」
彼はそう言うと恐ろしい形相で眼前を睨みながら、今回の退院後初めてマリを玄関に上がらせて、神妙な面持ちで語り始めた。
「私のひいおじいさんとおじさんが喘息だった。その喘息のおじはものすごく自己中心的な人で、親戚じゅう誰も手がつけられなかったんだよ。それで私のおじいさんが私を呼んで、そのおじのことを私に頼んだの。おじのことをたしなめられる人間が私しかいなかったから。おじは私の忠告を受け入れなかった。私と喧嘩別れした二週間後に入院して、私と最後に会った二週間後に亡くなった。最後に会ったときにも私は彼をたしなめた。」
この話をしているときの彼は、いつもの彼ではなく、まるで何かが取り憑いているかのような凄みを持っていた。そして、さらに鬼気迫る形相で宙を見つめながらこう言った。
「私は彼を処分した。意図的にやった。」
彼は興奮のあまり武者震いしているようだった。マリは彼の豹変についてゆくことができず、あっけに取られて彼の様子を見守った。
彼は少し落ち着いたトーンに戻って、
「喘息は愛情の不足が引き起こす精神的な病気だよ。あなたも自分の病気をそのように捉えて向き合っていかなくてはならないよ。」
と言った。
なるほど、とマリは彼の意図を少し理解した。マリだってそれまで、喘息という病と向き合ってこなかったわけではなかった。喘息が精神的な問題と関わりが深い病気であることは承知していた。でもそれは、不安やストレス、特に親が子に心配を向けすぎることなどとの関連性として捉えていたのだった。彼は彼の経験を通して、喘息は「愛情の不足」や「自己中心的な性格」に起因する病気であると理解していることがわかった。それはマリの認識と違っていたこともあり、彼がたった一例を観察して導き出した誤った思い込みのように感じられた。
マリは彼の見解を否定したり反論をしたりするつもりはなかったけれど、次男とマリの持病についてそのような認識を持たれてしまうことが悲しかった。特に、マリが彼に寄せている思いについても、「愛情不足」と「自己中心性」に起因した歪な感情のように捉えられてしまうのではないかと思うといたたまれなかった。彼の喘息に対する負の思い込みや嫌悪感を突然に被されたような理不尽さと、そのせいで彼のマリに対する見方が変わってしまったんじゃないかという不安を、マリはどうすることもできずに飲み込んだ。
7月16日、彼の次の入院日を聞きに行くと、彼はピカピカに上出来の庭のキュウリとナスをマリにもいでくれた。マリは
(あなたが食べればいいのに。)
と思いながらそれをいただいた。そのときに彼は、
「喘息のおじは、実は喘息で亡くなったのではなかったんだよ。入院先で、心臓発作で亡くなった。喘息の人は心臓発作を伴う場合があるから、息子さんがそういう人生を送ることにならないよう気をつけて。」
と、先日の話の補足をした。さらに、
「それには両親が人生に積極的であらなければならない。新約聖書でもいいから、何か精神の軸になる思想を持つことが重要だよ。」
との忠告もしてくれた。彼のこの意見には一理が感じられ、何も反論がなかったばかりか、マリたち家族のことを真剣に考えてくれていることが感じられた。
「私はおじいさんとの約束を果たせなかった。」
という言葉を、彼は悔やむように吐き出した。
彼の次の入院日は、4日後の7月20日であった。
