✴︎神と女神✴︎②
〈4〉旅の記憶
神になる遥か昔、彼はたしかに大手商社で働いていた。
だが、学生時代から付き合う彼女と結婚し、子供はまだできていないがこれから希望ある未来が……と、いうところで奥様が病気になってしまった。
あれよあれよという間に介助が必要になり、そのうちに余命宣告までされ、仕事のストレスもあったがもともと温厚で真面目な彼はそのやり場のない気持ちをどう折り合いをつけたら良いかわからず、今できることだけを精一杯やりつつ、「妻が亡くなったら自分も死のう」そう思っていた。
病気になってからは手を握ることくらいしか体で愛情を示す手段はなく、当時の悲しい話をしつつも
「それでも、いまでも本当に愛しています」と、神は優しい目をして微笑みながら言った。
眠れない夜が続き、病院に行くと鬱と診断され、奥様の葬儀などひと通り済んだ後、彼は焦らず時間をかけて会社を辞め、家を解約し、家財道具など全てを捨てて、ついに、死に場所を探しに出た。
最後だから、したことないことをしてみよう……
そう思い、やり方もわからないままパチンコにも行き、キャバクラにも行き、その街で一番高いソープランドへも行ってみた。
ムラムラしている男性に目の前の女性が絶世の美女に見えるように、逆の状況の彼が勃つはずもないが、この世での経験のためだけに入ったソープランド。
そこに現れたのは1人の女神だった。
されるがまま服を脱がされ、浴室で洗われて、それでも何も反応もせず何も話さない彼をベッドでぎゅっと抱きしめて、そのまま
「もう大丈夫だよぉー……。よしよし……」
といって頭を撫でられた時に、彼は今まで麻痺するほど長い間、無意識に我慢していたものが爆発するかのように、声をあげて泣いた。
自分でも何が起きたのかわからないが、彼の中に芽生えたのは、もしかしたらまだもう少し生きても良いのかもしれないという思いだった。
こうやって、女性に心を込めて抱きしめられたのはいつぶりだろうか……
冷たくなった妻を抱きしめて泣いた日のこと、愛する人の手を握ることしかできなかった自分と、本当は抱きしめてほしかったこと……
女神のその柔らかく力強い温もりに色々な想いが次々とフラッシュバックするように溢れ、
心をなくす前……はるか昔の温かい記憶が蘇り、全てを赦されたような、そんな安堵にただ泣くことしかできなかった。
「私は、この世界の女神に命を助けられたんです」と神は言った。
それからもう少し生きてみようと思った彼は生活を立て直し、たまに女神のところへ通うようにもなった。
プレイよりも、ただ寄り添って欲しかった。
それは側から見たら「プレイもしないのに高いお金を払って来る変な客」でしかないが、彼にとっては「生きていていい」と、認められる何よりも大切な時間だった。
それを聞いた私の率直な感想は
「その時、引いたのが当たりの姫で良かったですね」だった。
そして、私だったらどうするだろうと考えた結果、やはり同じようにすると思うということも伝えた。
神は静かに頷きながら「岡村さんなら、そうするでしょうね」と言った。
実際に最後の遊びとして来る人もいるし、不穏な空気を出している客というのもいた。深い話を聞かなくてもそういう雰囲気を出している。そんな時、私は唐突に「次いつ来る?」と聞いていた。
苦しい現実は「あっちの世界」。岡村のいる世界はあっちの世界とは関係ないからね。あっちの世界に飽きたら、ここに逃げてきて。ただ、岡村は架空の生き物だから。気づいた時にはもういなくなってるかもしれない。だから、早くきてね。
これはネタでもあるし営業文句でもあったが、半分は本気だった。この世界と現実とを切り離したい、自分はいつか必ず元の世界に戻れるし、いつでもこの世界を切り離せるという願望からそう言っていた。
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〈5)旅の終わりか始まりか
神になる前、旅人だった彼はだんだんと元気を取り戻し、「私も男ですから」と言うように他の店や他の姫にも入ったりして泡活動にハマっていった。
だが物理的なものも全てを捨ててから思い直し、それから再就職したばかりの懐事情では毎回高級店というわけにもいかない。
そんなある日、中級店でフリーの良客なのをいいことに地雷嬢をつけられた。
多くは語らないが「ただ、あの時、ここにきていたら自分はあのまま死んでいただろうと思った」と言っていた。
──そこから、彼はあることを思いついた。
【自分を助けたあの女神のような人しかいない、そんなお店を作りたい】
だがその時すでに40歳近くなっていて、社会的に訳ありでもない業界未経験の会社員が面接で夢のような志望動機を話しても聞き入れる店はなく、あからさまに馬鹿にされた。
夢見すぎじゃないの?
この仕事舐めてんの?
客として遊んでれば?
それは、自分からはキラキラして見えていた世界の本音だった。
光の裏には影があることを知り、やはり理想でしかないのかと思っていたときにたまたまそこのグループの会長が現れて
「まぁ、試しにどのくらいできるかやるだけやってみれば?」と言ってくれた。
そこからただの雑用スタッフとなり、何年もこつこつと続けるうちに、もともとの真面目な性格から色んな店を管理する統括にまではなったが、そこにもまだまだ理想とは程遠い現実があった。
……やはり、所詮は「仕事」なんだし、すっきりするために来る場所なんだから、そんな理想なんて通用しなかったかな……
会長に、本音と辞めることを伝えると、予想外な答えが返ってきた。
会長自身が引退も考える中「最後に、その理想郷を作りたい。全て君が納得するようにやってみて欲しい」との事で、彼自身もこれが最後のつもりで、全力で女の子集めから店の管理など全てをやった。
少しずつ軌道にも乗ってきて、どこかに女神になれる人はいないか……と探し回っている時、風俗サイトのニュースで
「入店3ヶ月時点でリピート率100%の業界未経験嬢」というインタビュー記事を見かけて、早速、予約を入れようとしたが当分はいっぱいとのことで断られてしまい、何度目かのトライでなんとか予約にこぎつけた。
インタビューでその嬢は
「この世界は幻なんです」と言っていた。
「それが理解できない人は私を指名しない方が良い」とも言っていて、ブログもやっていないし写真も首から下だけのその嬢に会える日を待った。
主な目的はただ一つ。条件の提示。
こちらの提示が、彼女が納得する条件であるかどうか……あとは、どんな凄い嬢なのか会ってみたい気持ちもあった。
──そしてついに、その日は来た。
派遣型の店の、その嬢をラブホテルで待つ。
初対面からロングコースで、差し入れは多くの嬢からは不評のコンビニスイーツと甘いドリンク。
インタビューでもはっきり指名するなとまで言い切る、ちやほやされて当たり前の人気嬢がこんなものを渡されたらどんな反応をするだろうか……プライドの高い嬢ならば不機嫌になってあとでゴミ箱行きだろう……
少し緊張しつつ「バケモノクラス」と言われたリピート率のその嬢を待っていると、時間ぴったりにチャイムが鳴った。
──現れたのは
黒いVネックを着て、すごく綺麗なわけでもすごく華やかなわけでもない、黒髪ショートヘアで、両手にコンビニのアイスコーヒーを持った普通の嬢だった。
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〈6〉嬢と旅人
ロングとはいえ、随分のんびりしたお客さんだな、と嬢は思った。でも、そういう人好きです、とも言った。
アイスコーヒーも飲み終わり、お腹が空いていたので、差し入れの新作のコンビニスイーツを美味しいうちにいただくために、ホテルのポットで、持参した紅茶を淹れた。
私、この種類が好きなんですよ……と言って嬢は紅茶の説明をし、すすめてきた。
早摘みのファーストフラッシュは青い匂いがするから、好きだけど自分とは違う。3番目の秋のオータムナルはまだ私にはわからない。だから、2番目のセカンドフラッシュが今の私と合う……とか、言ったら、かっこいいですか?……本当は、単純にこの香りが好きなだけなんですけどね。
そう言って、満面の笑みといった表情で笑った。
紅茶を淹れ慣れた彼女のお気に入りは、強いマスカテルと甘味と苦味と、爽やかさとウキウキする香りがして、一口飲めばその青くもなく熟してもいない香りが体に染み渡るような……本当に彼女にぴったりだった。
気を許してしまい、もう全て正直に話すことにした。自分がいま高級ソープという名の理想の世界を作っていること、その引き抜きに来たこと、条件、講習の話。自分はただ最後に、お世話になったこの業界に恩返しをしてから辞めたいということ。
一通り話し終えると、嬢は、自分が何故今ここにいるのか話し始めた。
実は今も会社経営者で最近離婚したばかりだということや、会社を閉める為にこの仕事を始めたこと、現在の手取り額、講習を受けてもお客さんが支払う金額に自分が見合っていないだろうということ。
ただ、まだ会社の方の仕事もあるためお店には短時間しか出られないから、一本の手取りが倍近くなるなら、私の目標である会社を閉めるための金額的には問題がないとも言った。
そして、「そろそろ、プレイしなくて良いんですか?」と嬢は聞いた。
「じゃあ、自分のいつもの感じでやってみて欲しい」と伝えると
「本当は違うこと考えてるでしょ」と笑う。
……違うこと?と考え込むと
「もうさっさと講習したいと思ってるのかと思いました。さっきよりなんだか楽しそうにソワソワしてるから」と言われて自分の本音に気がついた。
そうだ、今すぐにでも講習に移りたい。
「でも、絶望的に向いてないかもしれないし、まだ行くとは決めてないですからね」とも言って笑った。
まずは服を脱ぎ、浴室に行き、洗ってもらう。
何を考えながらしているのかと聞くと「新婚の頃、こうして一緒にお風呂に入って、洗ってあげたことあったっけなって」と笑う。
──よく笑う子だなと思った。
そして自分も、新婚の頃はそんなことあったなと思い出して笑った。
こんなこともあるかと持参したローションボトルと、こんなこともあるかもしれないと選んだソープマットのある部屋。浴室や道具の温め方から枕の設置、ローションを風呂場で使う場合の注意点なども説明し、プレイと呼ぶにはあまり相応しくない講習をした。
次回は今回教えたことを復習でやってみて欲しいと伝え、帰り道ですぐに次回の予約をした。
何故そんなに高いリピート率なのかを探りたかった筈なのに、この時点でもう自分も「変わった時間の使い方をするリピーター」になっていることには笑ってしまったが、最終的に彼女がどう選択しようとそれはそれで良いと思った。
──なんだか清々しい気持ちになり、誰もいない春の夜道で思いっきり深呼吸をすると、いつかの春のような、懐かしい匂いがした。
