どす黒くて儚い、短い夢・第十一話〈孵化〉終
その後、彼からの返信はなかった。
困らせたくなかったのに困らせてしまったかもしれない。ちょっと意地悪だったかなと反省して、日を追うごとに冷静に思い返せば思い返すほど反省が増えていった。
私がこれまでに1番辛かった時期は
彼との別れでもなく、事の発端を知った時でもなく、彼に会うよりもっともっと前、風俗をやる前の仕事に打ち込んでいる時だった。
当時の彼はそんな風に仕事で辛い最中にいたのに時間を作ってくれて、それなのに嫌味を言われ、帰ってからもまた被害妄想に狂ったメールが来て……私はなんて酷いことをしてしまったんだろうと思った。
誰よりも、自分よりも大切だったはずの人に。
好きな映画のセリフで
「もしも、絶対に取り返せない1点があるとして...それは、取り返せるかな?」
というのがあって、その時の私はまさにそんな心境だった。
反省は大いにするべきだけど、ネガティブに傾きそうな自分を奮い立たせるために、風俗嬢になる前、会社経営者だった自分がそうしていたように
「できなかったこと」を数えるんじゃなくて
「できたこと」を数えた。
私が初めて彼とデートして迎えた朝「ただの1人の女である自分」を「昨日までの風俗嬢の自分」が見て感動した。
お金の絡まないデートができた
自然に笑えた
好きな人のためにご飯を作れた
体に良いものを知るために勉強した
嫉妬しないように我慢ができた
好きな人のためにプレゼントを選べた
生きていることが良いことだと思えた
初めて人を好きになった
本音を言っても、涙が出なかった
.....まだまだ無限にあるけど、全部彼のおかげだと思った。
……あの日、今の自分のように冷静に彼の辛い状況を理解できていたら……
もしかしたらもしかして、あんなことにはならなかったかもしれない。
気取ってないで普通の女の子みたいに泣き喚いて、行かないで!ひとりにしないで!あなたじゃなきゃだめ!なんて、なりふり構わず縋りついて言えたらよかったのかな?
それでも、私はそんなことしない方がいいことくらいわかってたし、彼に会う前から私はそんなダサくない。
だから、どう転んでもそんなことはできなかった。
それより何より、彼の精一杯に甘えて、全力で走る背中を押すようなことをしてしまったことは今でも後悔している。
その状況が何よりも辛いってことは過去の仕事をしていた頃の、タクシーの中で悔しくて泣いた自分が1番理解していたはずなのに。
そのくせ、終わりが来るのが怖くてちゃんとはっきり言わなかった事も、はっきり言えないくせに突くような事ばかり言ってしまった事も、今となってはそれも悪かったとわかる。
一度、私自身も復縁する気がない今だからこそ素直に言える反省の気持ちを伝えようと思ったこともある。
けれども、送れないまま何年か経った。
こうして歳をとって、いつか、あれほどまでに私が望んだ「平穏な死」が来るんだろうな。
初めてのデートの日、焼肉を食べながら何故か夏目漱石の話になって、その帰りにあなたは「月が綺麗ですね」って言ったね。
私はあの時から何も変わらないまま、あの日のぼんやりと浮かぶ大きな月のように、綺麗だけど決して手が届くことのない夢を見ていたのかもしれない。
あなたがいなくなってから、日が昇り、日が沈み、また日が昇り、また日が沈んで.…どうやら私は100年は待てないみたい。
──ねえ聞いて。
わたしね、あれからあなた以外の人に抱かれたのよ。
あなたとした時みたいに心までは満たされなかったけど、一瞬だけ忘れることはできたの。
でも、あの頃みたいに泣かなかったよ。
また別の人だけどプロポーズもされたの。
断ってしまったけど。
身も心も置き場がなかった私の居場所を作ってくれたあなたが、いつかあの頃の私みたいになってしまった時に、いつでも笑顔でおかえりなさいって言いたいから、あなたの帰ってくる場所はずっと空けておきたいって思ったの。もうあなたと復縁する気はないのにね。
……やっぱりバカでしょ?
あなたが「ふわふわだ」って言った布団、もう買い替えてしまったけれど、あなたが望むならいつでも買ってきてまた掛けてあげるからね。
私ね、あなたのおかげで転生して人間にはなれたけど、バカなのはまだ治らないの──。
これは、あなた以外の誰にも見せたことのない、私の心の奥底にずっとあった命の記録。
あなたがいる世界は底なしに深くて暗くて孤独で……
暖かくて苦しくて儚くて、それでも確かに光る希望だった。
あなたが垂らしてくれた蜘蛛の糸への感情は、依存でも他責でも「好き」とも「愛してる」とも違う。
それはただ真っ直ぐな「欲望」だった。
これは、夢と現実の境目でぼんやりと見たような見てないような気もする、美しくて痛くて、今となっては跡形もなく消えたけど、でも絶対に偽物じゃない
あなたと私だけが見た「どす黒くて儚い、短い夢」
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おわりに
[大好きだった人へ]
昨日と今日の間に夜があるように、あなたといた私と今の私の間には、暗い暗い闇がありました。
あなたといた眩しい世界に雲が立ち込め、そして嵐になった。
嵐によって最後の一本である蜘蛛の糸も切れて、真っ暗な闇の中を這うことしかできなかった。
それまで体でしか感情を伝えることができなかった私が見つけた「書く」という脱出方法。
あなたを失う事がなければ来ることが出来なかったこの世界が、今は、あなたといた時間よりも眩しくて居心地が良くて、本当は私はこっちの世界の人だったんだとさえ思う。
五つ星ホテルもレストランも、タワマンからの景色も、ハイブランドのお店で出されるお茶やチョコレート、お店を貸し切ったクリスマスも、100本の薔薇も真珠も夜景もダイヤモンドも……
……あなたといた頃の私を喜ばせたものたちは、今はただ、あまり興味のない過去のものになった。
ただ、あなたといた時間はいつまでも儚く美しく、どす黒くて苦しくて、それでも、今の私にとっては大切な思い出。
愛しい時間、愛しい人。
ありがとう。そして今度こそ、さようなら。
幸せでいてね。
──終──
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