どす黒くて儚い、短い夢・第七話〈神のいる世界〉
そんなある日、彼の家に行くと真剣な顔で向き合って座り「あ、遂に別れ話か……」と幽体離脱みたいに自分の魂が自分から離れるのを感じた時
「ごめんなさい!クラミジアうつしたかもしれない!何でもするから許してください!あと病院に行ってほしい!」
と言われた。
──2度目だ。
なのに、別れ話じゃないことに安堵する自分は今思うと本当に健気で本当に弱くて、本当にバカだ。
それは決して彼が他の人としたという現実を見たく無かったわけじゃない。
……当時の私は、それほどまでに元の世界にいる元の自分に戻るのが怖かった。
地獄へ逆戻りではないことに安堵し、お詫びに眉毛のアートメイク入れ直し費用を払ってもらうことにして「素人はやめてね」と言った。
プロなら愛情はないことは身をもって知っているはずだ。
だけど、私はそもそもプロとして知り合ったのにこんな風になってしまった。
「プロとの連絡先交換とか本指名(リピート)もやめてほしい」と付け加えると、彼は「もちろんもちろん!もうしません!」と言った。
病気をうつされても、私と会わずに他の女と生でしていても、もう会うことはない、名前も知らないただの穴だ。自分がそうだったように。
……そう、自分に言い聞かせた。
その後に彼は1週間ほど海外に行く用事があり、帰国の連絡と共に
「言いにくいんだけど、念のためしていた別の検査にもひっかかって」
「マイコプラズマジェニタリウムっていう新し目の....」ということで私は病院に行ったが陰性だった。
そして帰国して1週間後に、私たちはクラミジアから久しぶりに生でした。
……でも、実は知っていた
マイコプラズマジェニタリウムって、当時は治療期間が最低2週間。その前後の検査も早くても2日はかかる。海外にいた彼が帰国してすぐに病院に行き、その日から薬を飲み始めても一週間。
病院は陰性になった確認の検査もするので、2週間経たずに陰性を出すわけはない。
彼が個人輸入で1週間も薬を飲めば治ったと思い込んでいたのでなければ
「彼が引っかかった」じゃなくて「うつしてきた女が引っかかった」のを、彼に連絡する手段があって病気を伝えたと。
誠実な風俗嬢ならばお店を通じて伝えることもあるが、ほとんどの嬢は伝えずに店を変えるか、連絡先を知っている常連客にしか伝えない。
こうして私は我慢の限界が来て、遂に行動を起こした。彼と会うきっかけになったお店に連絡し「最近、◯◯さん来てますか?」と聞いた。
店からの返事は「先週もきたよー。すごい頻度だからもう系列含めて全員行ったんじゃないかな?また出勤してよー」だった。
──その子達が彼と使ったベッド、私と一緒に選んだんです。
その人、私が初めて好きになった人なんです。
私はいま、その人のことが好きすぎて出勤できないんです。
収入が6分の1に減っても、生きているだけで幸せなんです。
……帰国してすぐは忙しいだろうからと連絡も控えていたのに、他の人としてたんだ。
私が会いたくて寂しいのを我慢していたのはなんだったんだろう。
──そう言いたくて言いたくて泣きたくて叫びたくて……惨めで、息が詰まるほど苦しくて、死にたいくらい辛いけど……それでも、声には出さなかった。
平然を装い「そうなんですねー、ありがとうございます!そろそろお金も無くなってきたし、また復帰する時は連絡させてもらうのでよろしくお願いします!」と言って電話を切った。
この時、演じる力がまだ残っていた自分に驚きつつもまだ「私が行動してしまったばかりに知らなくて良い事を知ってしまった」と思った。
けれども、今回ばかりは抑えられなかった。
そのまま彼に「帰国してから呼んだ?」とラインを送った。
「呼んだってなにを??」に「お店」と返信する。
「呼んでないよ」と来たので「◯月◯日、行った人いるよ」と返した。
「ごめんごめん、忘れてた。呼んだかも」
この時初めて「クソデカため息」というものが出た。そしてその状況で彼を責めるよりも先に、先程のお店への演技と逆のその反応をした自分を「人間ぽい」と感じた。
話は逸れるが、私は風俗を始めた頃にほぼ同時期にデビューして仲良くなった友達がいる。
彼女はインスタグラムをしていて、今でいうインフルエンサー並みのフォロワー数ではあったが
当時は草創期ということもあり、それで稼げるシステムはほとんどなく
「インスタで知り合った彼氏」とやらに貢ぐために風俗を始めていた。
彼女曰く「私には旦那も子供もいるから彼とは結婚してあげられない」「その代わりに欲しいものは買ってあげる」だそうで、何度止めたかわからないし、実際にその彼氏とやらにも会ったこともある。
彼女は「なんだかんだ信用できるのってお金だから」「愛情はお金に変えられる。逆に愛なんて口だけでならなんとでも言える」
「客がそうじゃん」と言った。
確かに、素人を落とす手間や風俗代を浮かすために風俗嬢を必死に口説こうとする馬鹿な男は山ほどいたし、いちいち覚えていないほど斬り捨ててきた。
そんな感覚なので、彼の遊びを愚痴っても
「でも、ちゃんと毎月お金くれるんでしょ?それって本当に大切じゃなければできないよ」だった。
お金をあげるために風俗を始めた彼女の価値観からの言葉は理解はできないが説得力がある。
人間が100人いれば100通りの美学があり、100通りの正解がある。
「誰も間違ってない」という彼女の言葉には何度か救われた。
「あなただって、間違ってないんだから」
と彼女は言う。
続けて
「でも執着しちゃダメよ」「執着はお互いに何も生まない」とも言った。
彼女と働いていた当時、恋愛偏差値なるものがちょっと流行ったことがあり
簡単なイエスノーで彼女の恋愛偏差値は63。私の恋愛偏差値は37だった。
ちなみに学生時代の学力偏差値は私は70台で彼女は自称50だったから、最終的にその男を訴えることになった時など難しいことはことあるごとに私に聞いて鵜呑みにし、実行していた。
そんな関係の、高恋愛偏差値の彼女が言うならそうなんだろうと納得した。
別れた元旦那も県内1の低偏差値ヤンキー高校出身だそうで、あまりにもアホすぎる行動を私が理解できないでいると
「お前みたいないい子ちゃんにはわかんねえこともあるんだよ」と言われ、私が昔から世間知らずの「あんみつ姫」と揶揄されていたのもあり、大人の世界は学力だけでないことがたくさんあるということは納得していた。
風俗を始めたことは元旦那だけには伝えてあり
ある日突然「今日、ゆりこさんの会社があった場所の前を通って、俺はゆりこさんの人生を変えてしまったんだなと反省してる」とメールが来た。
人間の世界は勉強だけできても世の中を渡っていくのは厳しくて、勉強以外ができた方が役立つことが沢山あるんだ。
本を読まなくても、作文が下手でも、本心であれば気持ちは言葉で伝えられる。
逆に耳障りの良い、読みやすくて軽快な文章なんてものは自分に酔って本性を偽るための偽装装束でしかない……。
そんな、恋愛偏差値どころか人間的にも未熟で、生まれた時からただチヤホヤされて生きてきた私には、この状況でもう、何をするべきなのかわからなくなっていた。
どうしたら良いのかわからない私はただ彼に
「私は戦えない」とだけ言った。
彼は笑いながら「戦わなくていいんだよ」と言った。
他の女性が出てきてもその戦い方がわからない。
おそらく深く深く深く傷ついて、そのまま去って、閉じこもってひとりで泣くくらいしかできない。
彼の元嫁みたいになりふり構わずSNSで喚き散らかしたり、誹謗中傷を書き込んだり、ブログで一方的に有る事無い事暴露したり、相手を特定して直接文句言う……なんてみっともないことは絶対にしたくない。
だって、私は彼のおかげで転生したんだから。
それならば、他の女性が出てきた時点で不戦敗しか道はない。特に、相手が妊娠したら……
若い頃に一度流産し、今更子供を産めるわけでもない年齢の私にとって、それはきっと死刑宣告よりも辛いだろう。
養子なんて言っても「今、もらっていない」現実が答えだ……
──彼と私の間にかかっていたキラキラした大きな虹がだんだんと消えかけて、雲のようにぼやけて、ついに一本の蜘蛛の糸になっていくのを感じた。
蜘蛛の糸に吊るされて、どちらかが手を離したらもうおしまい。どんなに必死にしがみついても切れてしまうかもしれないその蜘蛛の糸を、それでも私は信じた。
当時の私にとって、信じられるものはもうそれしか無かった。
それでもまだ、蜘蛛の糸が重さに耐えかねて彼も一緒に落ちてしまうならば自ら手を離して私1人が地獄に落ちようと思っていた。
──私は、必死で考えないようにした。
たまに資格試験の勉強をしたり、たまに料理したり、たまに買い物に行ったり、たまに仕事したり。
そうやって考える時間を減らした。
....と、減るのは暇な時間だけでなく、気づいたら貯金も減っている。
そこからも彼は、何もなかったようにイベントや節目の度にとても嬉しいことを沢山してくれてドラマや映画のような素晴らしい日を過ごし、イベントがない時期も作り置きを作って渡すというささやかではあるけど私のすべてとも言える幸せを繰り返しているうちに、いつしか疑うのをやめられていた。
だが、貯金残高が300万を切った頃になってやっと
「あれ?これ、だめじゃね???」
と現実を見た。
原因は浪費ではなくて、例えば魚を買うにしても美味しい方を選んだり、ちょっと高くても彼の好きなものを作るためにデパ地下で食材を仕入れたりの積み重ね。
以前の私が全く料理をしなかっただけに、相場を知らないまま上がり続ける食材や調理器具の値段にもあまり関心がなかった皺寄せがきた。そこでも私はいらないブランドものをフリマサイトで売ったりして、何度も繰り返してついに売りたいものもあまりなくなり、働かなくてはならなくなった。
わたしが戻るのが普通の仕事ではないことも、風俗に復帰したくない事にも理由がある。
彼が会える日と私の休みのタイミングが合わなかったら嫌だ。
かと言って風俗に復帰したら他の男の人と触れ合わなければならないし、何よりまた「自分がそうなんだから相手もそうなんだ」と
「自分が他の人としてるから彼も他の人としてる」と疑心暗鬼になるのが怖かった。
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