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どす黒くて儚い、短い夢・第十話〈蜘蛛の糸〉


……勝手に夢を見て
希望なんて最初にクラミジアの薬と一緒に飲み込んだはずなのに、気づいたら生きるために愛するふりをするんじゃなくて、愛するために生きていたこと。

過去の自分が命を削ったお金がどんどんなくなっていっても、それでもまだ今の生活を守りたかったこと。

生まれ変わりたいと心から願い、初めて人に頼ることを教えてもらって子供のように泣いた日のこと。

この生活を壊さないためにいろんなことを見て見ぬ振りしていたこと。

傷ついて、苦しんで、絶望してもまだ蜘蛛の糸の先にあるぼんやりとした光を頼りに進もうとしていたこと……

息ができなくても耐えられるくらい、好きだった。
痛みなんてとっくの昔に、彼に会う前からもう感じなくなっていたはずなのに……痛い。

痛いよ!
辛いよ!!
苦しいよ!!!
────誰か、助けて……

節約を始めてからは電車を使っていたのに、その日は帰りのタクシーの中でも泣いた。

最初にタクシーで泣いたのは風俗を始める前、真剣にやっていた会社経営での出来事に悔しくて泣いた。
2度目にタクシーで泣いたのは彼の優しさに感謝の気持ちが溢れて泣いた。
3度目は今日……

タクシーの運転手さんにとって「なぜか泣いてる女の客」なんてただの迷惑客だ。
けれども、彼と知り合ってから人間ぽい自分に転生し、涙が流せるようになった。
何度か書いたが、私は本音を言うと涙が出る種類の人。
恋愛だなんていう、この世界で最もくだらない事に涙が流せるということは本音が言えるようになってきたってことだな……

……そして私は、彼に本音をぶつけた。
ラインはずっと既読にならない。
見てるのに見てないふりをして、また私が消して何もなかったように冷静になって謝ると思ってる。
要は、向き合う気がないのはわかっていた。

その時の私は必死な自分と、それでいいの?気持ちが晴れたら今の生活はいらないの?我慢できる人に生まれ変わったんじゃないの?
……ほんとうに、それでいいの?
と迷う自分と戦っていた。

家に着く頃にはもう何もかもが嫌になり、それでもフッと息を吹きかけたら切れそうな細い細い蜘蛛の糸に縋り、バーにいる時に送ったラインから全て送信を取り消した。


そしてそのラインについても何も触れられないまま、会う約束をしている日になった。
その日は奇しくも彼の3度目の誕生日だった。

プレゼントも料理も前々から計画して用意していたのに、会ってからも私は嫌味が止まらなかった。
怪しいと思っていた日のことを言ったり、誕生日の前のことも知ってるんだからと言った。

向き合う気のない彼はその日も何食わぬ顔でいつものようにセックスをして、そんな様子にもう演技をする気もなく何も感じない自分に、いつもとは違う涙が溢れた。

いつもより強い力で、真剣な顔をして首を絞める彼に、泣いたまま目を見て、掠れてもう声にならない声で「殺して」と言うと、首にかけた手を離して私の髪を撫でながら
「あれはきみと知り合う前の事だよ」と彼は言った。
....違う、違うのは知ってる。

……人間関係が悪い方向に向くのって
嫉妬とマウントとお金やらの欲だから「私、そんなこと考えたこともありません」みたいに振る舞えば
だいたいのおじさんは「こんなに理想の女性がいたのか」と信じて感動し、私に課金する。
今までそうやって何人も操ってきたじゃない。
強欲ではなくて、嫉妬もマウントも知らずにただ笑っている好みの容姿のエロい女……
それが正解だってわかってたのに、おじさんたちと彼は違うと信じて期待して、なのに裏切られたことへの絶望から来る怒りでもうわからなくなっていた。

何百回も見てきた、客と同じ排泄のような射精をした後、後ろからハグして「他の女なんていないよ」という彼をふりほどき、無心で正面から向き合い、両手で彼の大きな体を突き飛ばした。


「いやなの!!!」 

────やっと言えた。
そうなんだ。嫌なんだ。すごく嫌だった。ずーっと、嫌だって思ってた。
……でも、この世界が壊れるのが怖くてずっと言えなかった。

彼が他の人に自分と同じことをしたことも、元嫁に邪魔されることも、色んなことを見て見ぬ振りしてスルーすることも、彼が私と向き合わずになあなあにされることも、そんな事に怯える自分も、何もかも嫌だったのに。

たった一言の「嫌だ」がやっと言えた。

──ずっと我慢して、必死に見ないふりをしていた本当の心の底からの本音なのに。もう、涙は出なかった。

彼の部屋を出て、無言で車寄せに通じる自動ドアを抜けると、その日の別れはいつものキスやハグじゃなくて握手だった。
握手をしたまま車の前で立ち止まる彼を見ると、捨てられるサモエドのような、置いていかれる子供のような顔をしていた。

子供の顔でじっと動かないまま無言で頷く彼の、私の手を握る力が強くなった時、私は一往復だけ首を横に振って手を振り解き、そのままタクシーに乗った。
それはきっと、彼が初めて見る、今までで一番冷たい私だったと思う。

タクシーのスライドドアが閉まり始めると、眉毛が八の字になった巨大な少年のようなその人は、初めて話しかけた時のようにちょっと焦って一歩踏み出して身を乗り出し
「いってらっしゃい」と言い、私はそれに瞬きで返事をした。

いつもと違う、駐車場を出るまでまだバックミラーに映る彼。

それさえも、何もかもが腑に落ちなくて、帰宅してからもまだ「他の女とはもう旅行に行かないで」と送った。

一言で言うなら
「私はこんなに好きなのに」という感情だけで、相手のことはもう何も考えられなくなっていた。
だって、私は今までずっと、もっと我慢してきたんだから。

彼からの返信は
「暫く会うのはやめた方が良いと思う」だった。
「嫌です」と返した。
続いて、私がどんな気持ちで今までやってきたか、私が目指したのは「帰りたい場所」と言う存在になることと、たらたらと長々と鬱々と今まで溜め込んだ分を送った。
彼ならわかってくれると思って。

その返信は
当面の生活費をくれるということと
自分はそんなに完璧な人間ではないということ
今の状況では私が求める人ではいられないこと。
それと、今の私は帰りたい場所ではなくなっているから、お互いもう戻れないと思うという内容だった。

──全てが、終わった。

終わったけど悲しくないし動揺もしてない。悲しくないから涙も出ないしため息も出ない。
もちろん怒りの感情はなく、私を人間にしてくれた、過去の彼への感謝だけだった。

……でも……
私のいないあなたなんか、私の好きだったあなたじゃない。

気がつくと、もう私が必死に守ってきた「何か」は無くなって、何故かすっきりしていた。
だから、こんなこと言ったら彼が困るからと思ってずっと言えなかった私の本心を返した。

【誰にも言った事がないし思った事がないけれど、私を人間にしてくれたあなただけに持った初めての感情を言わせてください。
今までずっと、困らせたくないから言えなかったけど、終わった今ならもう困ることはないだろうから。
……私と、結婚してください。
財産の問題ならば私が死ぬ1秒前でいいから、それまであなたの近くにいさせてください】

不思議ともう涙は出る気配もなかった。
ずっと言わずに我慢していた、本当の本心だったはずなのに。

むしろもう、なんの感情も湧かなかった。
──だって、その時はもうそれは本心ではなくなっていたから。


#創作大賞2026
#恋愛小説部門


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